【書評】『ヘタウマ文化論』山藤章二著/岩波新書/756円
【評者】嵐山光三郎(作家)
ヘタウマ文化は1970年代に大流行したイラストで、河村要助、湯村輝彦、安西水丸、渡辺和博といった人たちだった。ヘタだけれど新しい。わざとヘタにしているわけではなく、ヘタを武器としていた。じつはウマいのだ。
若き日の山藤氏は「ウマくなりたい」と願って精進をしてきた。そのころ雑誌さしえの常連は、岩田専太郎、風間完、田代光、宮本三郎といった大家ばかりで、あまりにウマすぎて、到底、たちうちできない。で、当時気鋭の野坂昭如氏のエッセイのイラストを描いて独自のスタイルを確立し、絶大なる評価を得た。「さしえ」と「漫画」の垣根をはずしたのが山藤氏の手柄である。
そんなとき、ヘタウマ一味が参入してきたのだった。山藤氏はカルチャーショックを受け、以後四十年余にわたって、ヘタウマ文化とはなにか、と問いつづけてきた。ダダイズムやシュールレアリズムの芸術運動とは違うし、マルセル・デュシャンの革新的リロンでもないし、その格闘の記録を書きつづって執念の一冊となった。
イラスト以外の分野では、落語がある。山藤氏が親しくしていた立川談志は人並外れてウマかったが、「フラ」がなかった。フラは先代の林家三平のように、高座に出てきただけで客をなごませる味である。「どーもすみません。もう大変なんすから」だけでどっと笑わせる。
「フラ」は「ヘタウマ文化」とつながりがあり、さらにタモリの「モノマネ維新」は、古川ロッパの「声帯模写」を、カルく超えてしまった。ウマくなるより、ヘタな方が面白くて人に伝わる。そのへんの極意をあれこれとさぐっていく。
イラストも落語もがんばりつづければある程度はウマくなるが、ウマくなっても売れるわけではない。「古典愛好派に属する老人」と独白する山藤氏は大家となり、最近のイラストは、意図的に「ヘタ」に描こうとしているように見えるが、ザンネーン、それがかえって味が出てて、ますますウマいんだな。
※週刊ポスト2013年4月26日号