近年、日常生活の中で莫大なデータと統計数字に裏打ちされた確率が多く示されるようになった。中でも生死を分ける「がんの生存率」や「余命宣告」はどのくらい正確なのかと疑問を持っている人も多いはず。累計25万部のベストセラー『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社刊)の著者である西内啓氏に、医学における統計学の必要性について聞いてみた。
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――西内さんといえば、東京大学医学部の出身。医師になる夢を持っていたのですか。
西内:私は医学部の中でも医者になるコースではありません。どちらかというと自分は統計学を勉強したいという思いが先にあり、応用分野のひとつとして医学部の中にある「生物統計学」の専攻を選びました。
――そこで、医学的な知識を統計学に活かして、社会全体を健康にしようという道に進まれたのですね。
西内:生物医学と呼ばれる分野は、例えば体の中の細胞は100人見ても同じ形ですし、心臓に血が流れているのも誰でも分かる。でも、細かい仕組みが分かったからといって、人間の体がすべてコントロールできるわけではありません。
薬が理論上効くはずでも、効能を打ち消すような働きが人体の中に存在する場合もあります。重症ながん患者でも医学で証明できない奇跡の回復をする人だっていますよね。ですが、この患者には助かる確率がより高まる“有利な賭け”に舵を切っていくことができれば、もっと救われる人が増えると思いました。
――がんでは既に生存率など統計学が用いられています。
西内:「5年生存率」なんて言葉がよく使われますが、例えば5年生存率30%と言われた患者や家族がただショックを受けるだけなら、その情報にあまり意味がありません。大事なのは治療法(手術、放射線、抗がん剤など)ごとの生存率を比較して有利な賭けを選ぶこと。それに、生きるか死ぬかというだけでなく、症状や副作用の重さなどのトレードオフを考慮することもとても重要です。そうすることで医師の勘と実際のデータや自分の価値観を照らし合わせてどんな治療法を選ぶのかが、とても大切になってきます。
――昔に比べればがん治療もかなり進み、副作用のデータなども次第に揃っているのではないですか?
西内:そうなのですが、次に必要なのは医師たち、あるいは患者となる私たち自身がデータの読み解き方を理解しなければならないこと。欧米では早い段階から重視されてきた「EBM(根拠にもとづいた医療)」という表現が日本の公的な資料に登場したのは1999年度から。じつは、たかだか10年ちょっとしか経っていないんです。まだ医学界の大物の中にも、「なんかよく分からないけど、世間がうるさいから従うか」と、EBMをあまり理解していない医師がいるのも事実です。
――なぜ、日本の医学に統計学が重視されてこなかったのでしょうか。
西内:医学の流れには19世紀から脈々と続くドイツとイギリスの医学があります。ドイツ医学が上げた最も大きな成果は、細菌学者のロベルト・コッホが「すべての病気には百発百中で分かる原因がある」と、感染症の病原体を証明するための基本指針を提唱したことです。日本陸軍の軍医だった文豪の森鴎外がドイツに留学していたのも有名な話ですよね。
一方、イギリス医学はもう少しマクロに病気を見ようという考え方が強い。コレラの原因や感染経路を特定したジョン・スノウは、統計学的に病気の原因を探る疫学という手法を医療にもたらしました。イギリス医学の影響が強かったアメリカでも、1980年代からメジャーな医学雑誌の中で根拠に基づく医療が広がり始めてきました。
日本はどちらかというとドイツ型に近い考え方といえますが、統計学を医療分野に活かす手法は、欧米諸国と比べて少し遅れているかもしれません。今後は体と精神の両面から総合的な健康増進や予防に努めるパブリックヘルス(公衆衛生学)の研究もますます重要になってくると思います。
【プロフィール】
西内啓(にしうち・ひろむ):1981年生まれ。東京大学医学部卒業(生物統計学専攻)。その後、同大学院医学系研究科医療コミュニケーション学分野助教や大学病院医療情報研究ネットワーク研究センター副センター長、ダナファーバー/ハーバードがん研究センター客員研究員などを歴任。現在、調査・分析などのコンサルティング業務に従事している。
【撮影】横溝敦