ノンフィクション作家の故・本田靖春さんの全作28作品が電子書籍化され、アマゾンなどで配信が始まった。小説家の作品集の電子書籍化はこれまでもあったが、ノンフィクション作家のものはこれが初めてで、注目を集めている。(取材・文=フリーライター・神田憲行)
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本田さんは読売新聞記者として主に社会部で活躍。1971年に独立してノンフィクション作家となり、「不当逮捕」「誘拐」「私戦」など数々のノンフィクション作品を発表してきた。終生借家住まいで「由緒正しい貧乏人」を自称し、晩年は病気から失明、両足を切断するという苦難に見舞われながらも、最後の連載エッセイ「我、拗ね者として生涯を閉ず」を執筆、最終回を前にして2004年、多臓器不全のため71歳の生涯を閉じた。
死後、本田さんがクローズアップされるのは今回が初めてではない。2010年には河出書房新社が「文藝別冊」として「KAWADE夢ムック 本田靖春」として一冊まるまる本田さん特集のムック本を出している。また創刊90周年特集を組んだ「月刊 文藝春秋」2013年1月号では、編集者の中井勝氏が「誘拐」の舞台裏を紹介している。
《取材をスタートするにあたって、編集部と本田さんとの間で取り決めをした。「一、取材記者に頼らない」「一、カポーティと同じく全取材を筆者一人で完遂すること」。原稿は書き下ろし。(略)いまから考えると、ずいぶん苛酷な条件であったと思う。原稿完成までは収入ゼロ。だが本田さんの決意は固く、昭和五十一年から一年三ヵ月をかけてこの作品-「誘拐」完成に全力投入した》
ノンフィクション(=ドキュメンタリー)は時代性がポイントであり、それゆえ時代とともに作品も人も忘れ去られる運命から逃れることは難しい。なぜ本田さんとその作品は繰り返し再評価されるのだろうか。「我、拗ね者として……」の担当編集者のひとりであり、今回の電子書籍化も担当した講談社の吉田仁氏はその魅力をこう語る。
「まず文章の佇まいが美しい。ただ調べて書きましたではなくて、文学的であり、読まされてしまう巧みさもあります。またテーマに対する自分のスタンスがしっかりしていてブレない。日本のノンフィクション作品の原点のような存在ではないでしょうか」
実は私のようなチンピラライターが曲がりなりにも筆一本で国民年金と国民健康保険を25年間払ってこれたのも、本田さんのお陰である。
大学を卒業するときに本田さんの社会部記者の世界を描いた「警察回り」を読んでしびれた。そのあと「ちょっとだけ社会面に窓をあけませんか 読売新聞大阪社会部の研究」(後に「新聞記者の詩」と改題)を読んで、読売大阪の社会部長・黒田清さんの下で働くことを夢想した。
しかし一次の筆記試験で簡単に敗退、どこかで働きながら来年も受験しようかと考えていたら、黒田さんが会社から独立して自分の事務所「黒田ジャーナル」を設立した。ツテを頼って大阪市北区の事務所に押しかけ、「弟子にしてください」と何度頼んでも跳ね返された。独立したばかりで戦力にならない新卒を雇う余裕なんてない、当たり前だ。
そんなとき大阪で独立記念のパーティが開かれた。受付のお手伝いとしてかり出されて、二次会、三次会と進んで深夜のスナックのボックス席で、私の前に酔っ払って上機嫌の本田靖春さんが坐っていた。本田さんと黒田さんは盟友ともいえる間からで、東京からわざわざ来ていたのだ。若さの勢いとは恐ろしい、私は余っていた色紙を引っ張り出して、酔って顔を赤くした本田さんに頼み込んだ。
「僕、黒田さんの弟子になりたいんですが、なんべん頼んでも断られるんです。これに推薦状書いてもらえませんか」
「ん、いいよー、キミ、名前なんていうの?」
名前を告げると、色紙に黒のマジックでさらさらと書いてくれた。
《神田憲行君を黒田ジャーナルに推薦します 本田靖春》
作品から硬派な怖い人を連想する読者もいるが、若い人には優しく、茶目っ気のある人だったと思う。
その色紙を翌日、事務所で黒田さんに見せた。両手でしっかりと色紙をもってまじまじと見つめたあと、黒田さんはこういった。
「よっしゃ、採用や」
色紙は家宝として今も大切に保管している。
私たちアラフィフ世代のライターにとって、本田靖春はいまだ巨星である。その作品がこうして電子書籍化されて、若い読者の手に渡る機会が出来たのはこの上なく嬉しい。最初にお勧めするのはどれにしようか。検察内部の暗闘がひとりのスター記者を追い詰める「不当逮捕」か、「吉展ちゃん事件」をテーマに戦後ノンフィクションの傑作のひとつに数えられる「誘拐」にしようか、それとも本田さん本人の人となりを知ってもらう「我、拗ね者として生涯を閉ず」がいいか。どれをとっても古びておらず、「現在」につながる視座が与えられていることに驚くだろう。