世界のホームラン王の王貞治、盗塁王の福本豊、ミスターこと長嶋茂雄など、プロ野球ファンなら誰もが知っている伝説の選手だ。しかし、彼らに負けない成績やインパクトを残した、名選手たちがいた。
王貞治のように突出した記録を残しながら、歴史の幕間に身を隠している強打者たちもいる。中日、ロッテなどで中軸として打棒を振るった江藤愼一も、その1人だろう。
中日入団の1年目から130試合に出場、1964年から2年連続首位打者となり、1971年には史上初となる、セ・パ両リーグでの首位打者に輝いている。
カミソリシュートを武器に201勝を挙げた平松政次氏の話。
「ボクが入団した時の、中日の4番打者。その後、大洋で2年間(1972~1973年)一緒にプレーしましたが、チームメイトはみんな江藤さんのマネをしていましたね。“ミートの巧いパワーヒッター”という印象でした」
戦前・戦後に5球団を股にかけて打ちまくったのが、“和製ディマジオ”といわれた小鶴誠。シーズン161打点(1950年、松竹)は未だに破られていない日本記録だ。この時の打率.355、51本塁打という数字も突出している。
そしてあのイチローよりも早く1000本安打を達成した天才打者が、“元祖・安打製造機”の榎本喜八だ。
「中距離ヒッターで、ライナー性の強い打球が特徴の理想的な打者だった。王の師匠・荒川博さんの一番弟子でもある」と、“フォークの神様”杉下茂氏はいう。
毎日、西鉄を渡り歩き、通算2314安打、首位打者2回。しかし未だ野球殿堂入りを果たしていない(名球会は退会扱い)。それは打撃を追究しすぎたためか、周囲から「奇行」と見られるような言動が目立ったためともいわれる。引退から数年、誰もが榎本の存在を忘れ去った頃になっても現役復帰を目指して、ランニングを続けていたという伝説がある。
※週刊ポスト2013年5月17日号