5月11日、家族に見守られながら神奈川県内の自宅で息をひきとった夏八木勲さん(享年73)。膵臓がんを患っていたという。慶応大中退後、劇団俳優座の養成所を経て芸能界入りを果たした夏八木さんにとって、デビュー作での五社英雄監督との出会いは、その後の役者人生においても大きな影響を与えた。映画史・時代劇研究家の春日太一氏が振り返る。
俳優座養成所を卒業し、六六年に東映の『骨までしゃぶる』で映画デビューした夏八木勲は、続く主演映画『牙狼之介』二部作で、当時はフジテレビに在籍していた五社英雄監督と出会う。
今でこそテレビ出身の映画監督は多くいるが、テレビが軽視されていたかつての映画界では、それは珍しいことだった。その道なき道を切り開いていった男が五社だ。六三年のテレビシリーズ『三匹の侍』で刀が合わさったり、人が斬られたりする時の効果音を開発するなど、独自のアクション表現を追求し続ける五社は、低迷する当時の映画界にあって貴重な存在となっていた。『牙狼之介』も五社らしく、野性的な賞金稼ぎを主人公にした、西部劇タッチのアクション時代劇に仕上がっている。
そして本作以降、夏八木は『御用金』『鬼龍院花子の生涯』などの五社による大作映画のほとんどに起用されるようになる。
「僕は千住の生まれで五社さんは浅草。同じベランメエ喋りで当初から親しみを覚えました。互いの距離感が近いんです。まだ脚本のできていない段階から、五社さんには『牙狼之介』を一緒にやろうというお話をいただきました。ただそのためには立ち回りができないとだめですからね。歩き方、刀の持ち方、着物の着方、全て身につけなくちゃしょうがない。そこで五社さんにお願いして、河田町にあったフジテレビの屋上で空いた時間に稽古をつけてもらうことになったんです。
五社さんは殺陣で鉄身を使います。刃引きはしてありますが重量は真剣と同じで。それを差してフジテレビの屋上を行ったり来たりしたり、殺陣師の人に教わって素振りをしたり。『腰を落として』とか、全て丁寧に指導をしてくれたお陰で、あとになって時代劇をやる時も腰が自然と落ちるようになりました」
一方、『牙狼之介』を撮ることになる時代劇の聖地・東映京都撮影所は、殺しのリアル感を重視する五社とは対極的な、様式美的な型を大切にする殺陣を専らとしてきた。そして、絡み(=斬られ役)は、東映京都の伝統を身につけた大部屋俳優たちを使わざるをえないため、現場で五社の流儀を知るのは五社自身と殺陣師の湯浅謙太郎、そして夏八木の三人だけだった。
「東映京都撮影所は五社さんと流儀が違うんです。京都では殺陣に竹光を使います。五社さんの場合は鉄身ですから、刀と刀がぶつかると『パシャーン』といい音がして、火花が散ることもありました。僕も鉄身で稽古したものですから、そのつもりで刀を合わせると今度は竹光だから折れてしまう。京都は京都なりの上手い合わせ方があるんですが、あの時は五社さんにも僕にも、それは関係なかった。それで何度も折れて、相手の頭の上に飛んだこともありました。
五社さんは『刀は本当に当てろ。当てないと噓になるからな』と指示してくる。でも東映京都には、お腹すれすれで斬ったように見せる流儀がありました。それを全く無視してやったものですから、絡みの人には怪我をさせてしまって。そこはとても反省しています」
※週刊ポスト2013年4月26日号