1970年に発売された『冠婚葬祭入門』が306万部を超え、さらに続編が出て、計4冊のシリーズで合計700万部を超える、出版史上に残る大ベストセラーの著者・塩月弥栄子さん(95才)。東京・青山通りに面した茶道教室・養和会を主宰している。
塩月さんの歩んできた95年の生涯を、たくさんの貴重な写真とともにたどるのが、このほど上梓した『塩月弥栄子95歳 思いのままに生きなさい』(小学館)だ。千利休にはじまる茶道の家元・裏千家に生まれ、何不自由なく育ち、望まれて結婚しながら、婚家を飛び出した波乱に満ちた人生が余すところなく綴られている。
「わたくしはおてんばさんでしたの。弟の友達と相撲をとって、片っぱしから投げ飛ばして。自宅の屋根にのぼって、気持ちがいいものだからそのまま眠ってしまい、“弥栄子はどこだ”と大騒ぎになったこともあるんですよ」(塩月さん・以下「」内同)
お茶を無理に教えられた記憶はない。本格的に稽古を始めたのは、女学校3年のときだった。
「両親はわたくしが自分からやる気になるのを、待っていてくれたのです」
初恋は16才のとき。相手はふたつ年上の京大生だった。両親も認めた仲だったのに、彼は結核で急死。茫然自失のなか、数寄者としても知られる実業家の子息とのお見合い話が持ち上がる。
「その日、わたくしは一升瓶のお酒を飲んでお見合いの席に出ましたの。座っているのもやっと。相手の顔も見ることができませんでした」
しかし、先方は気に入ってくれ、20才で結婚、東京の豪邸での暮らしが始まる。
一方、戦争は激しさを増して、夫の事業は多忙を極める。4人の子供の母になっていた彼女は疎開。夫婦の距離が遠くなり、夫には他の女性の影も見え隠れするようになった。戦争が終わって2年後、彼女はついに4人の子を残して、婚家を出てしまう。
勝手に飛び出した手前、京都の実家に戻るつもりもなく、3畳一間の粗末なアパートに暮らし、事務員として働き出す。事務員といえば聞こえはいいが実際は雑用係で、お茶くみが主な仕事だった。でも、「お茶くみでもいい、日本一のお茶くみになろう」とひそかに決意した。
やがて、彼女のいれたお茶のおいしさが評判になり、いつしか「千家の娘らしい」「だったら、女子社員にお茶を教えてほしい」と請われ、暮らしは徐々に安定していく。
それからは、茶道教室の運営、政府の文化使節としての海外派遣、テレビ出演、執筆活動などまさに八面六臂の活躍だ。
※女性セブン2013年5月23日号