古代史を巡る論争の中で最も広く知られており、最大の謎といえるのが、女王・卑弥呼が治めていた邪馬台国はどこにあったのかということ。
中国の歴史書「魏志倭人伝」には、2世紀後半に倭国で起きた大乱が、卑弥呼を女王に立てることで収まり、邪馬台国を中心とする小国の連合が誕生したと書かれている。
だが、肝心の場所については、邪馬台国へ至る道筋をそのまま行くと太平洋上に行き着くなど謎が多く残されており、その解釈を巡って意見が分かれてきた。
論争の歴史は古く、江戸時代後期には、新井白石や本居宣長らが議論を始め、長らく「畿内説」と「九州説」の間で論争が続いてきた。そして、これまでは1986年に吉野ヶ里遺跡が見つかるなど邪馬台国の時代の遺跡や遺物が多数出土する「九州説」がやや優勢だった。
しかし、2009年に邪馬台国の有力候補とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良・桜井市)で、3世紀半ばの大型建造物跡が見つかったことで、この論争は大きな転機を迎えた。卑弥呼の墓との説もある国内最大規模の前方後円墳、箸墓古墳も近くにあり、研究者の間で「卑弥呼の宮殿ではないか」と期待が高まり、「畿内説」がにわかに活気づいたのだ。
今年2月には、陵墓への立ち入りを原則的に禁止してきた宮内庁が、箸墓古墳への日本考古学協会などの研究者の立ち入り調査を許可し、初調査が行なわれたことも、関心の高さを表わしている。発掘調査を担当した市纒向学研究センターの橋本輝彦・主任研究員が語る。
「邪馬台国の女王である卑弥呼が政治機構を持つには、大規模な人工集落があったと考えるのが自然で、纒向遺跡の規模はそれに相応しい。九州説の弱点は、吉野ヶ里遺跡を始めとした複数の遺跡群があるものの、それほどの規模を持つ象徴的な遺跡がないことです」
しかし一方で、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする“科学的物証”もまだ存在していない。九州説を主張する元佐賀女子短期大学学長の高島忠平氏は、こう反論する。
「邪馬台国は中国、朝鮮半島と交易していたが、九州北部からその交易を裏付ける文物が多数出土するのに対し、畿内からはほとんど出土例がない。それに加え邪馬台国ほどの国なら、当時交易の中心だった鉄の流通システムを持っていてしかるべきなのに、鉄の出土例も、九州に比べて圧倒的に少ないのです」
双方とも一歩も引く気配のない「邪馬台国」論争。この論争に終止符が打たれるかどうかは、魏から卑弥呼への贈答品の封として使われた「封泥」(ふうでい)の発見にかかっているという。
「封泥とは、箱を縛った紐がほどけないように上から粘土で固め、印を押したもの。公式な贈答品は卑弥呼の前でしか開封されないはずなので、封泥の発見場所こそ卑弥呼のいた場所だといえます。広大な纒向遺跡の発掘調査は継続中で、封泥や何らかの文字資料が出土しないかと期待しています」(橋本氏)
論争はまさしく“泥試合”の様相を呈している。
※週刊ポスト2013年5月24日号