ほとんどの日本人が「645年」と答えるであろう「大化の改新」は、“蒸し米で祝おう”などと覚えたが、今の教科書では、646年の改新の詔から始まる政治改革に書き換わっている。だが、近年では、大化の改新すらなかったとする説が物議を醸しているのだ。
大化の改新を簡単におさらいすると、645年に権勢を誇っていた蘇我入鹿、蝦夷(えみし)親子を中大兄王子(天智天皇)と中臣鎌足が誅殺した「乙巳(いつし)の変」が起こり、直後に即位した孝徳天皇が「改新の詔」を発令し、公地公民制など律令国家の礎を築いたとするもの。
これがなかったとはどういうことか。大化の改新を否定する立命館大学の山尾幸久名誉教授が語る。
「『日本書紀』の孝徳紀には645~647年、天皇が11の詔を下したとあります。漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしい。
また、孝徳天皇が営んだとされる前期難波宮は、近年の発掘調査で、もう少し後世の天武天皇の時代のものではないかと見直されている。律令制度が我が国で本格化するのは、白村江の戦(663年)で敗北し、国内の改革を痛感するようになった天智天皇の時代だ。こうした点を総合的に判断すると、大化の改新なるものは疑う必要がある」
もっとも、この説は山尾氏自ら「異端」と認め、今も学会の主流は改新の詔に端を発する政治改革は行なわれたとするものだ。だが、山尾氏はこうも続ける。
「『日本書紀』が編纂された奈良時代は天武天皇系がわが世の春を謳歌した時代で、真に律令制による改革を行なった天智天皇を過大に評価することはないだろう。何らかの政治的意図で天智天皇を“格下げ”するために、中大兄皇子を残虐なクーデターの首謀者として位置づけた可能性は捨てがたい」
大化の改新を日本書紀の通り理解すれば、蘇我氏を滅ぼした国内のクーデターによって中央集権国家が誕生したことになるが、実際の改革がもっと後に行なわれていたとすれば、外圧に対する敗北で危機感を強め、国家を改革したという異なる歴史を読み取ることもできる。
※週刊ポスト2013年5月24日号