50年以上も前から現在に至るまで、多くの人が慣れ親しんだアニメ制作に深くかかわってきたアニメーター・佐藤好春さんが語るアニメの今昔を語ってくれた。
「ぼくが子供の頃は白黒テレビが徐々にカラーに変わっていった時代。『鉄腕アトム』(1963年)や『鉄人28号』(1963年)はよく見ていましたね」(佐藤さん・以下「」内同)
日本アニメーションの『愛少女ポリアンナ物語』(1986年)や『ロミオの青い空』(1995年)などの世界名作劇場シリーズ。そして『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』(1989年)などのスタジオジブリ作品の制作に深くかかわってきた。
「中学生のとき、おふくろが『アルプスの少女ハイジ』が好きだったんですよ。それを一緒に見たら、自分もハマってしまって(笑い)。もともと絵は好きだったんですが、ハイジに出合ってから、一生懸命自分なりに絵を描き始めた気がします。なんて楽しい世界なんだろうって」
以来、日曜夜はアニメに没頭。そんな少年時代を送った。
「“こういう仕事につけたらいいなぁ”と漠然と思い始めた時期でした」
1978年にアニメ専門雑誌『アニメージュ』(徳間書店)が創刊。そこに掲載されていた募集広告をキッカケに日本アニメーションに入社。『赤毛のアン』(1979年)の動画を担当した。
「アンの作画監督などを務めた近藤喜文さんとの出会いは大きかった。近藤さんが私生活を投げ出して、1年間アンに打ち込んでる姿をすぐそばで見て、アニメーションはそれぐらいやらなきゃいけないんだなと実感しました。入社早々、近藤さんに出会ったからこそ、名作劇場を9年近くも続けられたんだと思います」
27才のときには『愛少女ポリアンナ物語』(1986年)でキャラクターデザインと作画監督デビューを果たす。
「アンで近藤さんの仕事を見ていたからこそ、この仕事を受けられた気がします」
その後、スタジオジブリが『火垂るの墓』(1988年)と『となりのトトロ』を制作するにあたり、ジブリでやってみないかと近藤さんに誘われる。
「ポリアンナが終わって燃え尽き症候群になっていたのか、アニメを1年間やり通すのは、こんなに大変なんだと実感していました。次の目標がわからなくなったときに、そういうお話があって。スタジオジブリの宮崎駿さんはハイジや『未来少年コナン』(1978年)を作った人。どんなかたなんだろうとワクワクしましたね」
※女性セブン2013年5月30日号