明治以降は国家元首として、戦後は国と国民統合の象徴としてあり続ける天皇。時代が移り変わる中でも、「天皇家の兄弟たち」はそれぞれの務めを果たしてきた。その歴史を小田部雄次・静岡福祉大学教授(日本近現代史)が紐解く。ここでは昭和天皇の弟・秩父宮と高松宮の人柄について解説する。
* * *
古来、皇位は慣行に基づき天皇や朝廷公家らの意向で決定されるもので、皇長子に限らず皇族から多様に選ばれ、近代以前には兄弟姉妹間での継承が数多くあった。そうした慣行が改まったのは、明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範からである。
「男系男子の継承」「長子優先」などが規定され、ここで皇長子と弟宮の役割が明文化されたと言える。
明治天皇、大正天皇には成人した兄弟がおらず、直系男子の継承は実は“綱渡り”だった。大正天皇の后・貞明皇后が4人の男子をもうけて将来の皇位継承が安定するとともに、「近代天皇家の兄弟」の物語が始まることになる。
皇太子裕仁親王(昭和天皇)、1歳下の秩父宮雍仁(やすひと)親王、4歳下の高松宮宣仁(のぶひと)親王は、年齢が近く幼年期を共に過ごし、気心の知れた3兄弟だった。
学齢期になると、昭和天皇が乃木希典・元学習院院長の建言をもとに“次の天皇”として帝王学を授かる一方、秩父宮は陸軍中央幼年学校予科に入学(大正6年・1917年)し、高松宮は広島・江田島の海軍兵学校予科へと進んだ(大正9年・1920年)。
当時、軍は一般人が皇族と直に接することができたほとんど唯一の場であった。聞き上手で周りに人がよく集まった秩父宮と、「えこひいきされている、と思われては友人になった人に気の毒」という理由で友達を作らなかった高松宮は対照的だった。
昭和天皇即位後も陸軍軍人として活動した秩父宮は、石原莞爾ら多くの幹部と交流し、やがて激動に巻き込まれていく。昭和11年(1936年)、陸軍将校がクーデターを企てた二・二六事件が勃発。赴任先の青森県弘前にいた秩父宮はすぐに上京して高松宮とともに天皇に会い、蹶起部隊の行動を詫びたという。
昭和初めの動乱期にはさまざまな勢力が宮中に接近し、政治的策謀を行なった。とくに軍隊にいることで一般民間人に近い立場にあった弟宮は利用されやすい。元老・西園寺公望は672年の壬申の乱を引いて「軍部に利用された弟宮が皇位を簒奪するのでは」と危惧するほどだった。
秩父宮は満州視察や天皇名代としての欧州訪問など外交任務を数々果たしたが、その後肺結核を患い、昭和15年(1940年)、療養生活に入る。
※SAPIO2013年6月号