近代日本で「天皇家の兄弟たち」はそれぞれの務めを果たしてきた。その歴史を小田部雄次・静岡福祉大学教授(日本近現代史)が紐解く。ここでは昭和天皇の弟・高松宮の苦悩について解説する。
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海軍兵学校を卒業した高松宮は青年期、弟宮という立場に悩んでいた。昭和4年(29年)ごろの日記では「単にスペアーとして生きておるのが皇族であるとも云へない」と揺れる胸中を明かしている。
この頃、昭和天皇に男子が生まれず、宮中は重苦しい雰囲気に包まれていた。皇子のいない天皇に「万が一」があれば弟宮が次の天皇となる。長兄のような帝王学を学ぶ場もないまま天皇になるかもしれない難しい立場であった。
昭和8年(1933年)に明仁親王(今上天皇)、10年(1935年)に常陸宮正仁親王が生まれると、その頃の日記に「重荷のおりた様なうれしさ」を感じたと綴っている。
昭和天皇に共鳴しつつも、高松宮は海軍軍人として兄とは異なる時局認識を持っていた。昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると情勢分析の鍵となる上海視察を熱望したが、ついに昭和天皇から許可が下りなかった。そのいきさつについて日記には「『軍』と云ふ点にはかなり違ふものある御理解なりと感ず」と綴っている。皇室を守る一員として天皇の立場を尊重しながらも、その判断に時には批判的になることがあった。
昭和15年(1940年)、宮城前広場(現在の皇居外苑)で催された「紀元二六〇〇年祭」にて高松宮は昭和天皇に捧げる奉祝詞の朗読と万歳三唱を行ない「臣、宣仁」と発言した。一君万民では皇弟でも臣下となる。弟宮自ら「臣」と宣言したことに国民は感銘し、皇弟が担がれることによる皇位簒奪を懸念した西園寺も安堵したという。
しかし、昭和天皇と高松宮の間では時局が切迫するほど意見の違いが先鋭化したのも事実である。降伏後は昭和天皇がGHQ(連合国総司令部)の意図(天皇制の存続や皇族の範囲をどこまで残すかなど)を慎重に推し量る一方、高松宮はじめ皇族たちは昭和天皇の真意が見えず、苛立ちを募らせたことが高松宮の日記などからうかがえる。
戦後しばらく経った昭和51年(1976年)、『文藝春秋』誌上で高松宮は秩父宮勢津子妃や三笠宮寛仁親王らと座談会を開き、「皇族の自由というものが制限されている」「選挙権もない」と扱いへの不満を赤裸々に述べた。昭和天皇はそれにいたく立腹したと伝えられる。
※SAPIO2013年6月号