中日の高木守道監督(71)と井端弘和内野手(38)の“バトル”が注目を集めている。14日の対日本ハム戦(ナゴヤドーム)で、試合中にもかかわらず、中継プレーを巡り激論を交わしたのだ。7回表二死二塁の場面で、日本ハム・稲葉の中前打を大島が本塁へ返球するときに、遊撃・井端がカットマンの位置に入らなかったことを、高木監督は注意。すると、井端は一塁・クラークがカットマンに入るべきだったと異議を唱えたのだ。あるスポーツライターはこう話す。
「8年間、合理主義の落合博満監督のもとでプレーした井端をはじめとした主力選手は、高木監督の思いつきの指示とベンチで説教を始めたことに違和感を覚えているでしょう。
落合監督は『選手には家族がいる。もし俺が試合後のコメントで名指しで批判したら、妻が何かいわれたり、子供が学校でいじめられたりする可能性が大きい』と公の場で選手にチクリということはなかった。あまりしゃべらないことでマスコミ受けが悪くなっても、選手をかばい続けた。
それに対し、高木監督と井端の口論は、テレビカメラに収められ、スポーツニュースや新聞でも大々的に取り上げられた。しかし、試合後やカメラのないところでいうこともできたはず。また、指示に関しても、普段練習をしていないプレーなのに、井端が突然やり玉に上げられた。これでは、選手の気持ちを掌握することは難しい」
試合後、落ち着きを取り戻した井端は「僕が(中継に)入らないといけなかった」と冷静に話し、翌日には相手のファインプレーでヒット2本分を損する結果に終わると、「バチが当たった。天罰ですね」と、監督批判とも取られかねなかった行為を、素直に謝罪した。
井端のこの発言の裏に、落合氏の影響があるのではないかとの指摘もある。
イメージで“異端児”と思われがちだが、現役時代の落合氏ほど監督に従順な選手はいなかった。長嶋茂雄監督のもとで日本一に輝いた巨人時代の1994年、チームのカンフル剤を与えるために、9月10日の広島戦で一度だけ4番を外されている。この時のことについて、自著『激闘と挑戦』(小学館)でこう述べている。
〈監督が「5番を打て」と言えば打つし、「6番を打て」と言えば打つ。それは監督が決めることであって、その決定が嫌だったら、オレはユニフォームを脱がなきゃいけないわけだからね〉
同じようなエピソードは他にもある。前出・スポーツライターが語る。
「1985年のシーズン終盤、落合氏は52本の本塁打を放ち、王貞治氏の持つシーズン55本塁打(当時)の記録を塗り替えるチャンスがありました。ところが、稲尾監督に『来年に向けて、できれば残り試合で若手の力を見極めたい』といわれ、『いいですよ。明日から休みます』と即答したといいます。今となってはもったいなかった気もしますが、こういったところに、落合氏の監督采配を尊重する姿勢がよく出ていると思います」
今回、高木監督と口論となった井端は、落合政権最終戦となった2011年の日本シリーズ第7戦後に、「監督がいなければこういう選手になっていなかった。野球の深さを知った」と語っている。一瞬カッとなってしまったが、高木監督に反乱を起こした試合後、すぐ冷静になれた裏には、落合イズムが潜んでいたのかもしれない……。