またしても元プロ野球選手が……。5月21日、兵庫県警神戸西署は公然わいせつの疑いで、元日本ハムファイターズの難波幸治容疑者(43)を逮捕した。2010年8月、神戸市内のバス停で、女性会社員(36)に向け下半身を露出した疑いが持たれている。難波容疑者は、「2年前のことなのでよく覚えていない」と容疑を否認しているという。
難波容疑者は、どんな野球生活を送っていたのか。岡山南高校時代には、打球が練習場を超えて民家に直撃するため、外野に20メートルの“難波ネット”が張り付けられるほどの強打者として鳴らし、センバツ甲子園にも出場。1988年秋のドラフト5位指名で、日本ハムに入団した。
188センチ、90キロの巨漢からパワーヒッターとして有望視され、安藤順三・二軍監督(当時)は、「3年後には、上で中島(輝士=同年ドラフト1位)とクリーンアップを打てるようになる」と将来性に賭け、高卒ルーキーながら開幕からファームの4番を任せていた。
球団常務を務めていた親分こと大沢啓二氏が観戦に訪れることもあり、難波がノーヒットに終わると、「それでも四番か!」と“喝”を入れたエピソードもある。
現在の大谷翔平ほどとはいえないまでも、“ハムの希望の星”だったのだ。プロ入り1年目にして、規定打席に到達。打率1割9分4厘という数字を見れば、いかに首脳陣が辛抱強く使ったかがわかるだろう。
2年目の秋にも、芝草宇宙投手とともに、ヤンキースの教育リーグに派遣されるなど、球団は大きな期待を寄せていた。3年目はキャンプから一軍に帯同。紅白戦でストッパーの武田一浩からタイムリーを放ったこともあったが、結局シーズン中は一軍昇格を果たせなかった。4年目になると、イースタン・リーグでの出番も減り、一度も一軍出場を果たすことなく、秋に戦力外通告を受けた。
当時の選手名鑑によれば、難波容疑者は『理想のタイプ』に「山口美江のような美人タイプ」を挙げていた。