5月23日、多くの人気芸能人を輩出した『株式会社サンミュージック』の創業者で会長の相澤秀禎さん(享年83)が、すい臓がんで亡くなった。相澤さんにとって、特に思い入れが強かったのが松田聖子(51才)だといえよう。
相澤さんが聖子と出会ったのは、1979年5月のこと。レコード会社のオーディションに合格していた聖子は当時まだ高校3年生だった。
「でもその時相澤さんは、次の年に事務所からデビューさせる歌手をすでに決めていたので、聖子さんには“高校を卒業してからいらっしゃい”と、一度福岡の実家へと帰したんです」(芸能関係者)
しかし、聖子が相澤さんの前に再び現れたのはそれからわずか3か月後。たったひとりで上京し、「高校はやめてきました。先生にもちゃんと話してわかってもらいましたから」と相澤さんにデビューを懇願したのだった。
もともと聖子の歌声に才能を見出していた相澤さんだったが、何が何でも歌手になりたいという聖子の強い意志により一層惹かれていった。かつて相澤さんは女性セブンのインタビューに、当時のことをこう語ったことがあった。
「毎朝5時半に起きて、ぼくと一緒に走るんです。走りながらいろんな会話をする。タレントとしての心構えや一般常識、マナーから人とのかかわり方まで、何でも思いついたことを話す。途中、鎮守さまに寄って手を合わせるんですが、聖子は“毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します”と声に出して言っていましたね」
そんな生活の下、聖子は1980年4月に『裸足の季節』でデビュー。瞬く間にトップアイドルへと駆け上がり、歌謡史上にさまざまな金字塔を打ち立てた。
しかし1989年、手塩にかけて育てた聖子は、海外進出を狙うレコード会社と、相澤さんの方針の違いによって、“育ての親”の元を去ることになってしまう。相澤さんは当時のことをこう語っている。
「彼女は何度も電話をくれたんです。でも、ぼくは出なかった…。悪いなって思ったけど、出なかった。それがずーっと、いつまでも心に引っ掛かっていたんです」
その電話は、離れてしまう父への罪悪感から、聖子がいてもたってもいられぬ気持ちでかけたものだったのだろう。
しかし、その時の相澤さんは、わが子が飛び立つことに言いしれぬ失望と寂しさを抱えていた。結局ふたりはただの一度も言葉を交わすことがないまま、絆を断ってしまう。
それから17年後の2006年12月、聖子のディナーショーの時のことだった。知り合いに頼まれ、ディナーショーのチケットを取ることになった相澤さん。気まずい思いを抱きながら、聖子のマネジャーに連絡を入れると、「本人が相澤さんに“ディナーショーに来てください”と言っている」と思わぬ言葉が返ってきたのだ。
あれから17年──素直に喜ぶにはあまりにも長い時間が過ぎていた。強張る脚を一歩ずつ前に進めようやく席についた相澤さんは、複雑な思いでステージを見つめていた。
そしてショーの最中、「今日は育ての親の相澤さんが来てくれました!」という聖子の言葉に、集まった観客から拍手が巻き起こった。終演後、相澤さんは熱い想いを抱えたまま楽屋に駆けつけた。聖子は相澤さんに気づくと大粒の涙をこぼした。
「ごめんな、聖子」──相澤さんはただそれしか言うことができなかった。17年前のあの日から、何度も鳴る電話に出られなかったことを、ただただ謝りたかったのだ。相澤さんと聖子はそのまま抱き合い、17年の断絶を涙でとかした。その後、聖子はサンミュージックと業務提携を決めた。
※女性セブン2013年6月13日号