巨人の黄金ルーキー・菅野智之が開幕から順調に勝ち星を積み重ねており、いまや巨人の右の柱ともいえる存在になった。
思い返せば、2年前のドラフトでは、巨人と日本ハムが競合し、抽選で日本ハムが交渉権を獲得した。だが菅野は、伯父・原辰徳監督のいる巨人でプレーをしたいという想いから、浪人の道を選んだ。東海大学に就職留年という形で残った菅野は、対外試合に出られないまま1年間を過ごした。22歳という伸び盛りの時期に、本気で向かってくる打者と対戦できないという大きなハンデを背負ったのだ。
これまで、ドラフトで希望球団、特に巨人入りを果たせず、浪人を選択した代表的な選手として、江川卓と元木大介がいる。
江川は法政大学4年の1977年秋にクラウンライターから1位指名されるも、拒否。浪人を選択し、アメリカに渡り、打撃投手やアラスカのサマーリーグで登板した。1978年秋の「空白の1日」を経て巨人入りを果たすが、1年目は9勝。ルーキー、しかも6月からの登板でこの数字は“怪物”ならではともいえるが、江川自身、のちにこう振り返っている。
「向こうでは、ほとんど練習試合というかバッティングピッチャーみたいなものしかできなかったんです。(中略)肩の状態というのはそんなに戻ってはいなかったんですね。だから実際に1軍で投げた時の自分のボールは、東京六大学や高校時代に投げていたボールよりは、ちょっと行ってなかったんですよ」(掛布雅之との共著『巨人-阪神論』より)
江川は1981年には20勝を挙げ、チームの日本一に貢献し、MVPも獲得。プロ9年で135勝を挙げたが、「浪人がなければもっとやれたはず」と、惜しむ声も多かった。
一方、上宮高校で甲子園を沸かせた元木は、1989年秋に田淵幸一監督が就任したばかりのダイエーからドラフト指名され、一時は心が揺らぐも、入団を拒否。ハワイで1年間の浪人生活を過ごし、1990年秋のドラフト1位で念願の巨人に入団した。
3年目にようやく頭角を現わしたが、15年の現役生活で規定打席到達はわずか2回。ハワイでの浪人生活が、その後の野球人生にマイナスの影響を及ぼした感は否めない。
そのような2人の例もあり、菅野の浪人も野球生活に悪影響を及ぼすのではないか、と心配されていた。しかし、ここまでルーキーイヤーで期待以上の投球を見せている。あるスポーツライターはこう話す。
「江川も元木も、浪人中は真面目に練習していたと思います。でも、菅野はそれ以上に真剣に取り組んでいたのではないでしょうか」
(文中敬称略)