橋下徹・大阪市長の「風俗」発言が世界各国から違和感をもって受け入れられた。曰く、「それは売春だろ?」と。
日本においていつごろから売春婦が存在したかについてははっきりしない。通説では、少なくとも室町時代には売春婦が存在していたといわれているが、「公娼制度」、つまり売春を政府が公認し、管理する制度の起源は判明している。風俗史家の井上章一氏によれば、日本は“公娼制度の世界的パイオニア”だった。
「私娼を取り締まり、一か所に集める公娼制度は豊臣秀吉が京都や大坂道頓堀に遊廓を作ったのが最初とされています。売春業者を一か所に集めてそこだけで営業を許可するという制度は世界史的にも早い。フランスではナポレオンの頃に生まれたとされ、日本が先駆けだったのです」
公娼制度が導入された理由は、私娼が蔓延するのは道徳的に問題があることと、一方で売春というサービスを求める人間がいたためだという。その妥協点として、売春特区ともいえる遊廓が誕生したのである。
公娼制度は江戸時代にも引き継がれ、発展を遂げていく。江戸幕府は吉原、京の島原、大坂新町の三大遊廓を筆頭に、全国20数か所に遊廓を建設した。明治新政府が誕生したあとも、遊廓は存続した。
しかし、1872(明治5)年に遊廓文化に激震が起きた。
横浜港に入港していたペルー船籍のマリア・ルーズ号には、苦力と呼ばれた清国人(中国人)奴隷231人が乗船していたが、過酷な労働から逃れるために一人の清国人が海中へ逃亡。それをイギリスの軍艦が救助したことで、同船が「奴隷運搬船」であることが判明し、イギリスは日本政府に対し清国人救助を要請した。日本政府は人道主義の見地から、清国人を保護し、船長を訴追した。
問題となったのはその裁判である。船長側のイギリス人弁護人は「日本が奴隷契約を無効であるというなら、日本においてはもっと酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をしているではないか。それは『遊女』である」と問題提起した。売春という「人身売買」が公然と行なわれている日本には、奴隷売買を非難する資格などないという主張である。
慰安婦問題にもつながる、世界が日本の売春を「性奴隷」とみなす原点がここにある。明治新政府は反論できず、同年10月に人身売買を禁じ、娼妓を解放する「芸娼妓解放令」を発令した。
※週刊ポスト2013年6月7日号