スポーツライターの永谷脩氏が往年の名選手のエピソードを紹介するこのコーナー。今回は、“ザトペック投法”で知られた阪神のエース・村山実氏と、彼の終生のライバル・長嶋茂雄氏とのエピソードを紹介しよう。
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漫才コンビ「星セント・ルイス」のネタ、「田園調布に家が建つ」ではないが、昔の高校球児は「阪神で活躍すれば芦屋にマンションが建つ」と憧れていた。理由は芦屋川と国道43号線に面した場所にある、阪神・村山実が建てた「芦屋マンション11」。甲子園に出場する球児たちは、朝の散歩中、宿舎近くにあるこの5階建ての建物を見上げては、大投手を夢見ていた。
権力の権化のような東の巨人に刃向かう西の阪神は、反骨の象徴。その中心が村山だったから球児にも人気があった。村山について、阪神の後輩・江夏豊に話を聞いたことがある。
江夏が新人の頃のこと。今のようにコーチが手厚く教えるのではなく、技は自分で盗めという時代で、江夏は憧れの村山が投球練習を始めたと聞くと、いつもブルペンを覗きに行っていた。だが村山はその度に投球をやめてしまうという。私が「大エースなのに人が悪いですね」と言うと、江夏はこう答えた。
「アホか。プロとはそういうものというのを教えてくれたんや。ワシをライバルと見てくれただけでありがたかったよ」
そんな村山が終生ライバル視していたのが長嶋茂雄である。天覧試合(1959年)で打たれた本塁打について、最期まで「あれはファールだ」と譲らなかった。その理由は「長嶋といえども、当時は俺の速球を振り切れるわけがない」というもの。これぞプロの意地だった。
ただ、村山は一度だけ長嶋を認めたことがある。77年の後楽園での巨人戦、暴徒化した巨人ファンが物を投げ入れ、試合が中断した時、当時監督だった長嶋がライトスタンドに向かって帽子を脱ぎ、「頼むから野球をやらせてください」と頭を下げた。その姿に場内が静まり、試合は続行された。村山がこの時、「ワシが甲子園で同じことをしたら静かになるやろか」と呟いたのが印象的だった。
■永谷脩(ながたに・おさむ)/1946年、東京都生まれ。著書に『監督論』(廣済堂文庫)、『佐藤義則 一流の育て方』(徳間書店)ほか
※週刊ポスト2013年6月14日号