大記録のウラに、苦難の歴史あり――5月31日、ロッテ・益田直也(23)が月間18試合登板を果たし、1956年9月に稲尾和久が達成した2リーグ制後の最多記録に並んだ。
稲尾といえば、西鉄黄金時代のエースで、その快投ぶりから「神様、仏様、稲尾様」と崇められ、1961年には空前絶後のシーズン42勝を挙げるなど、通算276勝の大投手である。
最多登板の話題になると、必ず稲尾の名前が出てくるが、これは昭和の時代でも同じだった。一例を挙げると、1983(昭和58年)、阪神・福間納は中継ぎとして来る日も来る日も投げ続け、稲尾のシーズン最多登板記録(当時)である78試合に迫っていた。
すると、あるプロ野球有識者が阪神に「稲尾の記録は400イニング以上を投げて作られた中身のある記録。中継ぎの登板で形だけの記録更新はいかがなものか」という趣旨の手紙を送った。ほかにも、同内容の抗議の手紙が届いたという。
福間がインタビューに応じている書籍『中継ぎ投手』(澤宮優著、河出書房新社) によれば、日本記録に迫った頃、阪神のある首脳陣は福間にこう告げたという。
〈『お前、わかっとるやろな』『わかってます。最多登板のことでっしゃろ』『お前、最多登板ね、稲尾さんに失礼とちゃうか』『何の話ですか』『あの稲尾さんというのは、勝ちに貢献して投げた78試合や。お前はなんや。負け試合も投げているだろうが』
(中略)
『俺が、投げさせてくれと言いましたか。全部ベンチが“投げろ”と言ったから僕はこれだけの試合数を投げたわけでしょう。そら、おかしいのと違いまっか』
首脳陣も、福間の言い分はよくわかっていた。それだけに返事のしようがなかった。その幹部は腕を組んだまま黙り込むしかなかった。〉
福間の記録は77試合止まりに終わり、稲尾の記録に並ぶことはなかった。その後、「78」を超えるリリーフ投手は何人か登場するに至るが、スポーツ紙の野球担当古参記者はこう語る。
「中継ぎ、抑えの役割分担が明確化され、地位も高まった現在とは違い、当時はまだリリーフ投手は、先発投手の“下”に見られていました。まして、この年の阪神は優勝争いをしているわけでもない。有識者に限らず、世間も『福間には最多登板の記録を塗り替えるほどの価値はない』と、現代の視点で見れば、実に穿った見方をしていたのです。今回、益田が稲尾の記録に並びましたが、時代が時代なら、福間と同じように批判されていた可能性もあるでしょう」
苦渋を舐めた先人、リリーフの地位向上に貢献した投手たち……彼らがいたからこそ、益田は「神様、仏様、稲尾様」の大記録に並ぶことができたといえよう。
(文中敬称略)