スポーツライターの永谷脩氏が往年の名野球選手のエピソードを紹介するこのコーナー。今回は、阪神のエースとして王・長嶋と幾多の名勝負を繰り広げ、その後ストッパーに転向して“優勝請負人”と呼ばれた不世出の投手・江夏豊氏のエピソードを紹介しよう。
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野球の知識では右に出る者がいないといわれた山田久志をして、「アイツこそ野球のディクショナリー(辞書)」といわしめたのが江夏豊だ。特にリリーフに転向してからの投球術は、大向こうを唸らせるものだった。
ただ知識が豊富なだけに、自分よりも賢い者にはコロリと参ってしまう部分があった。1人は野村克也。阪神にこだわっていた江夏が南海に移籍したのも、江夏の登板を見ていた南海監督・野村の一言がきっかけだ。
「走者満塁・カウント2-3から、ボール球で三振を取った場面。あの球はわざとやろ」
この言葉で「わかっている人だ」となり、江夏は野村に傾倒。リリーフ転向も受け入れたのだ。
もう1人は広岡達朗である。日本ハム時代の1982年、連覇をかけ臨んだプレーオフ(※)でのこと。いかに江夏を打ち崩すか対策を練った広岡監督が注目したのは、江夏の「腹」だった。突き出た腹のせいでフィールディングが悪いと読んだ広岡以下首脳陣が、徹底したプッシュバントでの揺さぶりを指示。息が上がった江夏を打ち崩したのだ。
日頃「腹の横に肉がつけば贅肉で、縦につけば貫禄」などと屁理屈を言っていた江夏も、この時は広岡に感服。「俺をあそこまで苦しめた広岡野球を肌で感じたい」と語り、これが1年後の西武移籍への布石となった。だが結果的に、江夏の現役生活はこの西武で終わる。
江夏は今でも、私に「お前のお陰で野球人生が縮まった」と言うことがある。西武に入団した1984年の開幕前、“広岡管理野球はうるさいから、チーム自主トレには参加した方がいい”と、私が共通の知人らと一緒になって無理に勧めたのだ。
しかし行った日がたまたま雪で、江夏は室内練習場の坂で滑って転げ落ち、帰りには車がスリップ事故。1日で2回も“事故”を起こした。この縁起の悪さが尾を引いたか、監督との確執から二軍落ちして1年で退団・引退。通算200セーブまであと7つだった。西武からの任意引退の勧めを断わり、自由契約の身で引退したのは彼なりの意地だった。
【※注】当時のパ・リーグは前後期制。西武が前期優勝で、日本ハムは後期優勝だった。
※週刊ポスト2013年6月21日号