スポーツライターの永谷脩氏が往年のプロ野球名選手のエピソードを紹介するこのコーナー。今回は、選手を気持ちよくプレーさせる裏方のスペシャリストのエピソードを紹介する。
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黄金時代のチームには優秀な選手だけでなく、陰で支える裏方のプロがいるものだ。広岡達朗、森祇晶両監督時代の西武には、前田康介、植上健治、豊倉孝治という名スコアラーがいた。皆、少々酒癖は悪いが、一流の分析力で的確な指示を出すプロだった。そのうちの1人、植上が西武のマウイキャンプ中に客死したのは1995年のこと(心臓発作)。データ分析に行き詰まると酒を飲み、徹夜で仕上げる激務に心臓が追いつかなかった。
植上は1973年、エースで4番として高松商(香川)を春夏連続で甲子園に導いた。阪神にドラフト2位で指名され、その後クラウンライター(現西武)に移籍するが一軍未勝利。引退後、「自分の腕では球団に役立てなかったから、今度はペンで役に立ちたい」とスコアラーに転身した。愛用していたのは赤・黒2色のボールペンだった。
植上の分析は何度もチームを救う。特に1983年の巨人との日本シリーズ第7戦、マウンド上の東尾は、満塁で原辰徳を迎えた際、「内角にボール球になるシュートを放って体を起こさせれば、後はど真ん中でも空振りする」という植上の言葉を信じ、その通りの投球で三振に仕留め日本一をたぐり寄せている。
その植上の死──当時、監督1年目だった東尾は、せめて手厚く葬りたいと必死に駆け回った。マウイ島に1つだけあった浄土真宗の寺に頼み込み、ツテを頼って東本願寺の僧侶に来てもらった。ともかく寂しい形にはしたくないと、選手や、取材陣を含めた関係者が全員参列。腕章や喪章の用意が無いため、ホテルマンの黒のズボンを切って作ることにした。喪章作りには渡辺や潮崎哲也も参加、午後9時からの通夜に間に合わせようとしたのを覚えている。
東尾は監督として初優勝を果たした1997年、相手のヤクルトのID野球に対抗して「情報が多くなりすぎると無駄になる」と、慣例である日本シリーズ前の先乗りスコアラーの“偵察”をやめようとした。しかし、それを思い止まったのはかつての植上の言葉を思い出したからだった。
「スコアラーにとって、日本シリーズ前の偵察は一番晴れがましい舞台です。頑張った証として、2球団しかできないこと。あれだけは続けて下さいね」
脚光を浴びることは少ないが、仕事に誇りを持つ裏方だからこその言葉だった。
※週刊ポスト2013年6月28日号