5月23日、森田健作や桜田淳子、都はるみらを育てたサンミュージックの相澤会長が亡くなった。昭和43年にかつての四谷三光町、新宿ゴールデン街至近の場所からスタートしたサンミュージックの歴史を、作家の山藤章一郎氏がリポートする。
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創業40年、サンミュージックは4ページ刷りの記念新聞を出した。歌手の名とデビュー曲などが、編年で記載されている。活躍の度が大きければ、年を越えて同じ名が頻出する。 昭和55年(1980)にたった一度だけ出てくる名がある。〈中山圭子〉―。創業2年目に入社した現・〈アルデル・ジロー〉の吾妻忠義社長がいう。
「成城中学3年生。才能も期待度もとんでもない逸材でした。社長が日参して、とうとう親のOKをもらい、会社はイチオシでデビューさせることに決めたんです。それから猛レッスンが始まった。レッスン仲間に、蒲池法子という圭子の2歳年上がいました」
中山圭子はすべてが順調だった。レコード会社はソニー。プロデューサーは、山口百恵、郷ひろみ担当の製作2部・酒井政利。曲は南こうせつ、詞、阿木燿子。シャンプーのCMソングでデビューと決まった。レッスン仲間の蒲池法子は、中山圭子の出来てきた歌を聞いて「いい曲ね。涙が出てきちゃった」と祝福した。だが、ここで運命が一転する。外国製のそのシャンプーに輸入できない成分が含まれていた。販売中止。CMソングではなく、普通に出す歌になった。
一方、ソニーの製作第6部に若松宗雄というプロデューサーがいた。6部は、基幹の2部に較べて傍流といわれていた。オーディションの予選会の録音テープに、久留米の女子高生・蒲池法子の声があった。
「何度聞いてもいい。パーンと響くものがある。福岡に会いに行きました。お母さんと一緒に来た。あっこの子はいい。ストレートヘア、紺色のスカートを履いてね。本人は、やりたいが、親は反対している。粘り強く口説きながら、プロダクションを捜しました」
だが、5社に断られた。最後にサンミュージックに話を持って行き、後日、本人を相澤社長に会わせた。相澤はいった。『ソニーとは、超有力新人の中山圭子をやるから無理だ』 同じレコード会社、同じプロダクションから同時期にふたりがデビューすることはありえない。それでも、やりとりを繰りかえし、蒲池はサンミュージックに引き受けられた。
現サンミュージックグループ名誉顧問の福田時雄と、渥美清のマネージャーをやっていた森口健、さらに我妻の3人は、中山圭子を各テレビ局、雑誌のグラビアに売り込みながら、蒲池法子にもレッスンをつけた。蒲池に訊く。
『きみは本当に歌手になりたいの?』
『本当になりたいんです。どうしてもなりたいんです』
そして蒲池は、中山圭子のCMが立ち消えてわずか2か月のち、後ろからすっと抜けだすようにデビューした。ただし歌手ではない。太川陽介の恋人役のドラマ出演。この役名が〈松田聖子〉だった。相澤には持論があった。芸能界は浮き沈みの水もの。沈まずに、浮きあがる名がいい。木偏がつく松は縁起が良い。
聖子に強運が舞い降りた。中山のシャンプーは発売中止になったが、資生堂がティーン向けの初めての洗顔クリーム〈エクボ〉を出すことになった。CM用の歌をうたわないか。『エクボの季節』。福田、森口、吾妻の3人は、中山圭子を呼んだ。
「CMで火がつくかもしれない聖子に宣伝費を賭ける。新人賞も聖子にとらせる。こんなことになって申しわけない」
『エクボの季節』はのち『裸足の季節』と改題され、松田聖子のデビュー曲となった。売れた。
※週刊ポスト2013年6月28日号