日本髪に艶やかな引き着を纏い、様々な業種の店舗が並ぶ通りを颯爽と歩く芸者衆。今日も料亭のお座敷で、洗練された話術と芸を披露するのだ。
赤坂が花柳界の街といわれたのもいまは昔。かつて400人以上いた芸者は25人に、60店以上あった料亭は6店を残すのみとなった。
1950年代後半に始まる高度経済成長期、永田町の奥座敷として隆盛を迎えた花柳界。料亭に必要な障子や畳を扱う店、仕出し屋が軒を連ね、街全体も大きく賑わっていった。
だが、「官官接待」が厳しく規制された1970年代後半から衰退は始まる。田中角栄ら大物政治家も愛した、赤坂最大の料亭『中川』も1982年に暖簾を下ろし、その跡地には貸しビルが建てられた。赤坂ではバブル崩壊後、このような貸しビルが急増した。貸しビル業者はテナント確保に奔走し、これまで街になかった韓国クラブやパチンコ店が続々と出店していくこととなったのだ。芸者歴49年の育子さんが話す。
「客引きが道を塞いでお客さんを引っ張るなんて、昔は考えられなかった。そういう品の悪い人たちを見ていると、ここは私たちの街だったのよ、っていいたくなるわ。それでも時代は時代。いまは私たちにも営業努力が必要な時代です。努力を怠らず歌や踊りに磨きをかけ、赤坂が花柳界の街だったこと、そしてこの素晴らしい文化を伝え続けていきたいですね」
撮影■渡辺利博
※週刊ポスト2013年7月5日号