【著者に訊け】辺見庸氏/『青い花』/角川書店/1680円
舞台は震災があいつぎ、隣国との〈戦時〉でもある近未来の日本、らしい。主人公は左手に壁が聳える線路をただひたすら歩く〈わたし〉。家族をなくし、難民の群れも離れ、〈公的には「国内無登録避難民」だったか「域内無登録高齢流浪難民」〉の身分を証すIDカードも棄ててしまった。
〈わたしはだれでもない。だれでもないわたしは、どこでもないどこかを、だらだらとあるいている〉
それだけが確かな物語だ。
辺見庸氏(68)の最新作『青い花』。荒地をさすらう男の歩みと、とりとめのない思索や想念を綴る本作は、意味や感傷や絶望すらない「無」や「虚」や「穴」を思わせ、始まりも終わりもない〈「非場」のくらがりを〉、彼はただあるいている。
震災以降いよいよ空虚さを増す言葉とその可能性をめぐって、近年果敢な執筆活動を展開する辺見氏だが、実は本書に関してもNHKの復興支援ソング『花は咲く』の扱い等をめぐり、刊行までには紆余曲折あった。が、氏の姿勢は変わらない。いま、このときにこそ寄り添いうる言葉を求めてさすらう作家の、意志そのもののような小説である。
正確には震災の前と後で、辺見氏の問題意識に大きな変化はない。本書で言えば〈現象〉は幾らもあるのに〈本質〉が消失し、言葉と実体がずれてしまう意味の空洞化や、その人がその人であることをICチップやパスワードこそが証しうる身体性の喪失などが、3.11以降、顕在化しただけだと。辺見氏はこう語る。
「問題は、よほど僕は偏屈な男だと思われているのか、何を書いても妙に怖がられるんですよ(笑い)。確かに2004年に脳出血で倒れてからは書いてはいけないことを書きたがる傾向はあるけど、自分だけは正気だと思いこむ〈真性の狂人たちの澄みきった意思〉への皮肉や、むしろイカレた人間の方に親近感を覚えてしまう俺の分身を、もっと普通に笑ってくれていいんですよね。
ところが被災地を思う人の善意をおちょくるのはマズいと、今や文芸誌ですら自主規制する時代で、権力の介入以前にコンプライアンスやら〈PC(ポリティカル・コレクトネス)〉やらを持ち出し、『花は咲く』は削るか別の表現にしろと言ってくる。ただそれも誰のせいでもなく、要は皮肉やパロディすら通じないほど息苦しい時代ということです」
生より死、光よりは闇、凸より凹に吸い寄せられる「穴や溝好き」な傾向(?)も以前から一貫したものだ。
「走光性と走闇性があったら僕は断然走闇性の人間で、雌犬しか傍にいてくれない要介護2級の老いぼれでも、雄としてのリビドーは今の若い奴には負けない(笑い)。ただそれは必ずしも卑猥な意味ではなく、例えば被災者には闇やくらさにこそ慰められる人もいる。
今はメディアも政治家も走光性一色だけど、ピカピカの希望を語られるより、闇に深く沈み込む方が和む場合も人にはあって、ああした歌では歌いきれない何かを探ってこその詩や小説ですよね」
〈ツウベッタ、ツウベッタ〉。
なんとも意味の知れないその響きが、耳を離れない。かつて群れにいた〈三重吉さん〉をおぶり、震災地を歩いた時のこと。男は〈三重吉さんの言葉というか、声というか、からだの音のようなもの〉を背中越しに聞く。団結を強いる群れの中で何も語らず、〈放屁〉で抵抗を示したこの好ましい老人も〈新型特殊熱圧爆弾〉で死んだと噂に聞いた。が、〈「ツ、ツウベッタ、ツウベッタ…」の音か声〉は主人公ばかりか読者の体内にまで〈移植〉され、ふとした拍子に立ち現われるのだ。
〈もう、夜なのに〉という意味不明な〈きょうこ〉の呟きも、世間ではないことにされるノイズという点で似ていた。彼女は〈聖カエルム病院〉の精神病患者で、誰にでもやらせる女だったが、男は今、無性に彼女に会いたい。
そして〈ポラノン〉が欲しい。国はかつてのヒロポン同様多幸感をもたらすポラノンを国民に配給し、CMソング〈「明日は咲く」〉は戦争支援歌も兼ねた。が、IDなき男は歩くしかなく、それでいて失望も怒りもない〈凪いでいる〉としか言い様のない気分が、本作全体を覆う。
※週刊ポスト2013年7月5日号