立ち並ぶ粋な黒塀の前に列をなす黒塗りの高級車。後部座席からは名の通った政治家や財界人が降り立ち、彼らに食らいつき、なにかしらのネタにありつこうと新聞や雑誌の記者たちが張り込みに精を出す──。これは、自民党が長期政権を維持していた頃の、赤坂・料亭街の華やかな日常風景である。
「かつては永田町(国会)より赤坂で政治は動く、なんていわれていた時代もあったね」と、元参議院議員の平野貞夫氏(77)は昭和の時代を懐かしむように目を細めた。
第58代衆議院議長・前尾繁三郎の秘書を経て政治家に転身した平野氏は、「夜になると、前尾さんは料亭に行っちゃうから、よく決済をもらいに行ったもんだ」と語るように、料亭政治の内幕を皮膚感覚で知る一人だ。かつての、特に自民党の大物政治家には赤坂にそれぞれ行きつけの料亭があった。
「河野一郎さんは『香月』。岸信介さんは『岡田』。昭和30年代の後半に衆議院議長を務めた船田中さんは『川崎』。派閥でいうと竹下登の竹下派は『満ん賀ん』。宏池会は『若林』で、中曽根さんの系列が『金龍』だったな」(平野氏)
そして、昭和政治のドン・田中角栄は、『千代新』だった。ロッキード事件の公判で「懲役五年」を求刑される1週間前(1983年1月20日)にも、その姿があった。
仲居頭に手を取られ『千代新』から出てきた角栄先生。駆け寄ってきたスナックのママらしき女性を抱き寄せて、頬にキスをする。そして、「イヨッ」とお得意のポーズをした後、車に乗り込んだ──そんな写真も存在する。
「『千代新』の3階には角栄さん秘密の部屋が用意されていて、昼でもかまわず女を呼んでたっていうね。そんなときは、部屋に到着する前にズボンを脱ぎ終えてたっていう噂があったくらいだよ(笑い)」(平野氏)
もちろん、料亭は政治家がリラックスするためだけにあったわけではない。
「第一次佐藤内閣(1964年11月~1965年6月)のころね。荒々しく対立する与野党をまとめるために、全国会議員の丑年生まれに声をかけて“丑年会”というのを作った。会費2万円を集めて料亭で飲み食いする。こういうところで与野党の争いを縮小させたりしたんです」(平野氏)
いまでいう超党派の議員たち。畳の上で向き合って酒を飲み、芸者を呼んで楽しめば、いくら反目し合っていても、自然と本音で語り合うことができたのだという。
「自民党の人間が野党対策にも使っていたね。接待の際、“車代”なんて直接カネを渡すことはできないから、麻雀をしてじんわり負けてやるんだよ。ひと晩に20万円とか持って帰る野党議員もいた。これも料亭だからできたことだろうね」(平野氏)
※週刊ポスト2013年7月5日号