東京地裁では数多くの裁判が行われている。その傍聴は無料でできるが、世間の注目度が高い裁判のときには、抽選のために長い列を作って傍聴券を求める。裁判というのはどれも陰影に富み、奥行きが深いと前置きしたうえで、著名人の裁判の様子を作家の山藤章一郎氏が報告する。
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マニアにいわせると、傍聴人の数は近年、激増しているという。年金暮らし、早期リタイア組、主婦グループ、ニート、学生。殊に、著名人の裁判は希望者がふくれあがり、抽選になる。
〈司法統計〉によれば、東京地裁が1年に受け付ける事件の数は、刑事が1万と少し、民事は13万件を超す。それだけの数の人生の現実が眼前に突き出されて、好奇を掻きたてられる。
少し日が経った法廷だが。市川海老蔵殴打・初公判──。被告人と同席していた証人がなまなましく答える。
「海老蔵さんも立ち上がり、テーブルの灰皿を持ったまま(被告人の)胸倉を掴みました」
証人は「おまえいい加減にしろ」と海老蔵に詰め寄る。(すると)「海老蔵さんが(私の)鼻の下あたりをめがけ、何もいわずにチョーパンしてきました」
検察官が、「チョーパンは頭突きのこと」と説明し、それほどすごい衝撃があったのかと問う。
「ボクシングのフラッシュダウンみたいな。拳と同じくらいでした」
アテネ、北京両オリンピック男子柔道金メダリスト、内柴正人被告の〈準強姦罪〉初公判──。傍聴席の視界をさえぎる衝立の奥で、防犯カメラの映像再生を操作する音が聞こえている。「データーが重いんで」と手間取る検察官の声も。
内柴被告は直立不動の姿勢で、被告人席の小型モニターにじっと視線を向けている。再生が始まった。だが、傍聴席に映像は流れない。代わりに、女性の笑い声が聞こえる。「キャハキャハ」ひびく。傍聴席に、しわぶきも、息を飲む音もない。「キャハキャハ」また「キャハキャハ」。
つづいて、検察官は女被害者の友人たちの供述調書を読む。「部屋で寝ていたら被害者(A子さん)が来ました。目を真っ赤にして『うち、やられたわ』といいました」だが、対する弁護人は「(A子とは)合意の上だった」と申し立てる。「被害者は、性的興奮からあえぎ声をあげていました」廊下から部屋のドアがノックされ、「(内柴被告人は)性交を途中でやめ」「また性交を再開した」。
翌日のバスの中で(A子は)友人に「『めちゃへたやったんやけどな』などと苦笑して話しました」と、むきだしである。
もうひとつ、英国人女性殺害・市橋達也被告初公判(千葉地裁)の傍聴席もリアルだった。市橋の使ったコンドームなどの映像がモニターに映しだされた。
最近の法廷は、機器を使って生き生きと審理していく。コンドーム1個についていた精子のDNA型が、市橋被告のものと一致した。また、被害女性の細胞もついていたと、映像を示しながら検察官が告げる。強姦のコンドームである。傍聴席の被害者の母が、両目に手、指を押し当てる。震えが止まらない。
検察はさらに殺害現場の遺留物を映しだしながら、説明していく。
被害者の髪、粘着テープ……廷内に、凄惨が拡がる。母ばかりか父も嗚咽をこらえる。傍聴席が涙することは多い。
秋葉原で無差別に7人を殺害した加藤智大の公判──。
現場に遭遇した人物が証言に立った。多くの証人が加藤被告とのあいだにガード板を要求したが、この人は堂々と姿を現わし、一瞬、傍聴席にどよめきが起きた。
血まみれの人が仆(たお)れている脇で、男(加藤)がダガーナイフを突きつけてきた。周りは死者、負傷者の血の海で、大勢が叫びをあげ、男は返り血を浴びて走りまわっている。パトカーはまだ来ない。白昼の修羅だった。
そしてその場面を見い出して、この証人は静かに泣き声をあげた。私はなにもできなかった。なぜ勇気がなかったのか。ひとりも助けられず、その場にいた自分は何をやっていたのかと。
「現場にはあの時以来、行ってなかったんですが、今日、ここに来る前に、現場に……(泣き崩れる)あんだけの人を助けられなかったお詫びを、自分なりにしてきたつもりで」
傍聴席にすすり泣きが拡がった。
※週刊ポスト2013年7月5日号