東日本大震災による福島第一原発事故の収束作業を陣頭指揮した東京電力・吉田昌郎元所長(享年58)が、7月9日、食道がんのため亡くなった。1979年、東電に本社採用で入社。しかし、東京工業大学大学院出身の吉田さんは、重役のほとんどが東京大学OBという東電において「傍流中の傍流」、その会社人生のほとんどは、本社ではなく、現場の原子力発電所を渡り歩いていた。
吉田さんは2010年6月、4度目となる福島第一原発勤務を命じられる。そして2011年3月11日、その時を迎えた。巨大地震と津波は、原子炉の炉心を冷却する装置を破壊。吉田さんは冷却装置の代わりに、海水を注水することで炉の安定を図ったが、当時の菅直人首相(66才)は海水注入の中断を指示した。しかし、吉田さんはこれに背いた。
「吉田さんは官邸の指示を無視して、独断で注水を継続しました。上司や国の命令とはいえ、現場を知る吉田さんには到底、それが正しい判断とは思えなかったんでしょう。結果、吉田さんは日本を救ったんです」(東電関係者)
その後も吉田さんは不眠不休で事態の収束にあたった。だが同2011年11月、会社の人間ドックで食道がんが発覚、療養のため現場を離れることになってしまう。厳しい抗がん剤治療や外科手術に耐えた吉田さん。しかし、昨年7月には脳出血に倒れ、体力は限界だった。それでも吉田さんの脳裏から、福島第一原発のことは離れなかった。
「2008年、社内で福島第一原発に10m超の津波が押し寄せる可能性があるという試算が出されたことがあったんですが、当時、原子力設備管理部長だった吉田さんは、“そのような津波は、実際にはこない”と主張したんです。
ですから、大震災以降、彼はずっと責任を感じていました。だから、現場で働く人々や福島の人たちのためにも何とかしなければならないという思いが強かったんだと思います。意識を失うまで、“福島に戻りたい!”と言っていたそうです」(吉田さんの知人)
吉田さんの遺志を継ぎ、今なお福島第一原発では、現場の社員・従業員が復旧にあたっている。
※女性セブン2013年7月25日号