ピアノ調律師の裏方の職人を描いた熊谷達也さん(55才)の著書『調律師』(文藝春秋)が話題だ。
著名なピアニストだった過去を持つ主人公の鳴瀬玲司は、最愛の妻・絵梨子を失った悲しみから10年経っても逃れられないまま、今はピアノ調律師として暮らしている。鳴瀬がさまざまな調律の依頼者たちに出会い、彼らの隠された悩みに触れていく連作スタイル。並行して、彼自身の心とも向き合い、少しずつ変わっていくさまを追っていく。
本書には、中盤も過ぎたラストの2章でいきなり大きな転調がやってくる。その要因になったのは東日本大震災。熊谷さんはこの連載中に、生まれ故郷であり、今も暮らしている宮城・仙台市で被災したのだ。
「3.11が起きたのは、第2章を書き終わり、第3章に取りかかろうとしていたころ。震災をまたいで連載していた作品は他にもあったんですが、『調律師』は現在進行形のリアルな時間軸で書いていたので、しょせんフィクションだと頭を切り替えられなかった」(熊谷さん・以下「」内同)
仙台在住の作家として、震災の悲劇を織り込まずに書き続けることはできないと思った。
「とはいえ、現実に自分の目で見たものの衝撃が大きすぎて…。どうしてもすぐに取りかかれず、作家生活15年で初めて原稿を落としました」
物語の中では、鳴瀬は出張先の仙台のコンサートホールであの震災を体験する。
「普通はストーリー転換するのに災害なんかを都合よく持ってきちゃダメです。ぼく自身もそう自戒してきました。でも現実においては、震災は当たり前の日常を突然引き裂いたわけです。だからぼくはこの唐突さをそのまま書く方が誠実な気がしたし、そういう展開しか浮かばなかった。いわゆる小説のルールなんてどうでもいいやと思ったんです」
結果、最初の構想からテーマもがらりと変えた。
「恨んでも恨みきれないような他者を人は赦せるのかという問題を表現しようと思っていたんです。でも、身近に被災した人々がいっぱいいて、あまりに深い喪失感を皆が抱えている中で、誰かを、何かを恨む話を書くのは抵抗があった。なぜなら、家族を亡くされたかたはみんな自分を責めているんですよ。鳴瀬も自責の念からなかなか逃れられない。けれど、少しずつでも自分を責め続ける後悔から抜け出して、その先の人生を生きてほしい。それがぼくの率直な思いだったので、テーマは新たに『罪の意識に苛まれている人間が、どうしたら自分を解放できるのか』としました」
最終章で、鳴瀬の身に思いがけない出来事が起き、彼の心境は大きく変化する。
「この描き方でよかったのかどうかは読者がジャッジしてくれればいいと思っています。ただ、悩みに悩んだ分、とても思い入れのある作品です」
震災直後のインタビューで、いつかあの3月11日に起こったことを正面から書くつもりだと語っていた熊谷さん。すでに河北新報の朝刊での『潮の音、空の色、海の詩』など、気仙沼(作中では仙河海市という架空の港町)を舞台にした小説連載を3つ始めている。“忘れてはいけない”という思いを胸に、熊谷さんが綴る物語がどうなっていくのか、この先も見届けたい。
※女性セブン2013年7月25日号