スポーツライターの永谷脩氏が往年のプロ野球名選手のエピソードを紹介するこのコーナー。今回は、闘志溢れるプレーで観客を魅了した江藤慎一氏のエピソードを紹介しよう。
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中日・ロッテで計3度の首位打者に輝き、史上初の「両リーグ首位打者」となった江藤慎一について思い出すのは、1975年、彼が太平洋(現・西武)で兼任監督を務めていた頃のことだ。
試合後、江藤は宿舎でコーチを集めて車座になり、ミーティングをしていたが、その場には常にどんぶりに注がれた日本酒があった。負けた日でも、「終わったものはしゃあない。明日や明日」と最後は一気飲みをして散会するのが常。酒宴の途中に行こうものならばもう大変で、「駆けつけ3杯」と勧められ、何度もトイレに駆け込んだものだ。その豪快さと野蛮さから、当時は「山賊野球」と言われた。
晩年は静岡の天城山中に野球塾を開いて後進の指導に当たり、プロ野球選手を3人も輩出した。その頃は「平和ですねェ」が口癖の好々爺になっていたが、野球人生は豪快そのものだった。
熊本商高から社会人・日鉄二瀬を経て、1959年に中日に入団。初年からレギュラーとなり、1964~65年には首位打者を獲得して、王貞治の三冠王を2年連続で阻止するなど活躍した。江藤はとにかく四球を嫌悪する選手だった。歩いて塁に出るのも嫌いなら、自軍の投手が四球を出すのはなお嫌い。
「四球は逃げているとしか思えない。逃げるくらいなら打たれた方がマシや」
四球の走者を塁上に置いた時、江藤の守る左翼に打球が飛んでも、追いかけなかったことは2度、3度ではきかなかった。野球も豪快なら、私生活も豪快。副業で営んでいた自動車工場を倒産させたこともある。
「借金取りが球場まで来て、ワシが凡打で終わると、不渡りにひっかけて“不当たり!”とヤジるのさ。ロッテでの首位打者は、それを言わせないために、ヒットを打ちまくった結果さ」
大洋時代にも、試合が終わると川崎から銀座まで連日繰り出し痛飲するのだから、ツケはたまる一方だった。太平洋監督時代には、福岡にまで借金取りがやって来ていたほどだ。
ただ、繊細な面もあった。中日のライバルであった巨人の城之内邦雄・藤田元司、阪神のバッキー・村山実のクセを、グラブの指の間の僅かな開き具合でピタリと当て、その球種を読んでいた。それは、1976年に引退するまで誰にも喋っていない。
「余計なことを喋ってクセを直されたら、こっちがメシの食い上げだからな」
まさに食うか食われるかの戦いの日々であった。
※週刊ポスト2013年8月2日号