監視される側とする側であるはずの検察とメディアの“共犯関係”はどう生まれるのか。その接着剤となるのが捜査情報の「リーク」だ。知られざるリークの裏を、ジャーナリストの伊藤博敏氏が明かす。
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繁華街の少し外れにある薄暗いバーのカウンターで、眼光の鋭い壮年男性と30代後半の働き盛りの男性がこんな“禅問答”をしている。
「来週あたりですかね。忙しくなるのは?」
「何が?」
「いや、国会も今週で終わり。やりやすくなると思って」
「……」
「ウチはそれで打とうと思っているんですよ」
「いいんじゃないの。よく調べてるし……」
バーテンにも隣の客にも何の話かわからないが、これが大手紙記者と特捜検事のやり取りなら、記者が「会期中の国会議員の不逮捕特権が切れて、来週には捜査着手」とお墨付きをもらったことになる。
特捜検察が記者クラブメディアに都合のよい情報を流して記事を書かせる「リーク」が近年注目されているが、捜査官がわかりやすく記者にレクチャーしてくれる場などない。
退勤後のバーや出勤前の日比谷公園などで冒頭のようなやり取りが繰り返され、記事が作られていく。言ってみれば阿吽の呼吸だ。
東京地検特捜部は3班に分かれ、副部長が班長として10人前後の検事を指揮。特捜部長が統括する。記者は暗黙のルールで現場検事との接触を禁じられ、その代わりに副部長以上の幹部が毎日会見や個別面談に応じる。が、それだけではスクープは取れない。
「検事と一対一の人間関係を築けるかが記者の腕の見せ所です。そのためには事件の持ち込み、人脈紹介、資料収集、ハイヤーでの送り迎えとなんでもやる。昔は単身赴任の検事の自宅の鍵を預けられ、毎晩のように夜食を用意して帰りを待っていた先輩もいました」(ベテラン記者)
取材努力は当然あっていいが、問題はこうして得た捜査情報が記者にとっては特ダネとなり、秘密を共有する感覚から取材対象への批判的検証の目線が失われていくことだ。
権力は腐敗する。そのため、国家には権力の監視役が必要だという使命感を特捜検事は持つ。そして記者は腐敗した権力者の姿をあまねく報道することを使命とする。そういう意味で検察と司法マスコミは一体感を持ちやすい。
数ある記者クラブの中でも、司法マスコミほど検察=取材対象に忠実なところはないだろう。しかし、その検察そのものが強大な権力であることを忘れてはならないはずだ。
※SAPIO2013年8月号