「これは初めて話すが、林彪(りんぴょう)はソ連と内通していたのではないか。つまり、ソ連のスパイだったのだと思う」
こう切り出したのは元モンゴル外務次官のダラミン・ヨンドン氏である。氏は20年以上も外務次官を務めたモンゴル外交の重鎮。1971年9月の林彪事件当時、外務次官として機密事項を担当した。中国との交渉はもう一人の次官ビリガ・オルトン氏に任せ、自身は国防省、軍、情報機関、さらには駐モンゴルソ連大使らと共同で事件対応に当たった。
モンゴル政府部内で林彪事件の全容を知る数少ない元高官だ。そのヨンドン氏が初めてジャーナリスト、相馬勝氏の取材に応じ、冷戦時代の中ソ史で「最大の闇」と言われた林彪事件の真相を明かした。以下、相馬氏のレポートである。
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林彪は文化大革命(1966~1976年)の最中、1969年4月の第9回中国共産党大会で「毛沢東主席の親密な戦友」で「後継者」とされ、党副主席や国防相、党政治局常務委員を兼務して絶大な権勢を振るった。
ところがその後、林彪は毛沢東と対立し、空軍作戦部副部長だった長男の林立果らが毛沢東暗殺を企てたが失敗。報復を恐れて1971年9月13日未明、妻の葉群や林立果、部下らとともに、中国河北省の避暑地、北戴河近くの山海関飛行場から軍用機でソ連のイルクーツクに向けて逃亡した。ところが、同機は中国国境から350キロ北のモンゴル・ウンドゥルハンで墜落、大破して全員が死亡した。これが「林彪事件」と呼ばれる出来事の中国政府公式見解である。
なぜ中国と対立していたソ連に逃げたのか、墜落は事故だったのか、本当は中国内で殺されたのではないかなど、事件直後から世界中で憶測が飛び交い、林彪事件は「中国現代史最大のミステリー」とされて今に至っている。
ヨンドン氏によると、墜落機の中に軍用航空地図があり、北京、ウランバートル、ソ連のイルクーツクに○印が付いていた。林彪機の目的地はイルクーツクだったようだ。
墜落機はモンゴル軍のレーダーに捕捉されないよう高度約600メートルを低空飛行していたが、機にはそれを可能にする特殊機器が設置されていた。また、ソ連軍の周波数に合わせた無線機や暗号表まであった。すべてソ連製で、羅針盤もソ連のものだった。
「当時は中ソ対立が激しく、中国の最高指導者であっても最先端のソ連製機器をそろえられたのは不自然だ。林彪自身か、あるいは部下が、ソ連軍と特別な関係にあった証拠と言えるのではないか」とヨンドン氏は推測する。
「ソ連は当日、林彪の軍用機がイルクーツクに向かったことを知り、待ち構えていた。ところが、中蒙国境を越えた後、なかなか到着しないため異変に気づき、モンゴル駐留軍に捜索させたのだろう」
氏は9月30日午前4時、事件の報告書を持ってソ連大使館を訪ねた際、また驚かされた。報告書を受け取った大使は、「あの飛行機には林彪元帥が乗っていたようですね」と語ったというのだ。
「大使は情報の出所を明らかにしなかった。当時、墜落機に誰が乗っていたかについてはさまざまな情報が飛び交っていたので、私は『林彪説』もその一つと捉えていたが、ソ連側は早い段階で墜落機には林彪らが搭乗していたことを確信していたようだ」
事故直後に慌ただしく現場検証したソ連側は、その後、林彪や妻の葉群らが墜落機に乗っていたことを「確定」するため、なんと遺体の“首実検”に踏み切った。
同年10月、ソ連国防省法医学研究所長のビタリ・トミーリン氏とKGB調査部員のアレクサンドル・ザグボズディン氏が墜落現場に派遣された。2人の遺体検証方法はかなり荒っぽいものだった。
死亡した乗組員たちが葬られた墓を掘り返して遺体を並べると、まず全員の歯を調べた。虫歯の治療痕、金歯や銀歯の有無を手掛かりに2体を選ぶと、頭部を切断した。その場で火をおこし、大きな釜に湯を沸騰させると、そこに2つの生首を放り込んだ。
首が十分煮られたところで、モンゴル人の助手に指示して髪の毛や肉片をすっかりそぎ落とし、「しゃれこうべ」2つを持ち去ったのである。その1か月後、2人は再び現場を訪れ、今度は首がない遺体の胸部を切り取って持ち帰った。そして、今度は他の遺体もすべて掘り返し、同じように大きな釜で釜ゆでにして骨だけにすると、1体ずつ梱包して持ち去ったという。
林彪は中国が抗日戦争中の1939年から1941年まで、戦闘中の負傷の治療や肺結核の療養のためモスクワの病院で治療を受けていた。ソ連側はその際の頭と胸のレントゲン写真を保管していたのである。トミーリン氏らは遺体の頭蓋骨などを記録と照合し、林彪であることを確認した。
その結果は当時の最高指導者であるレオニード・ブレジネフ共産党書記長とユーリ・アンドロポフKGB議長にだけ報告された。その後、鑑定結果については翌1972年1月のソ連共産党政治局会議で報告されたが、協議の結果、「林彪死亡を確認したことは極秘とし、中国が公表した場合には再度、対応を検討する」とされたのである。
「対中関係正常化への糸口を断ち切らず、これ以上、関係を悪化させないためだった」とソ連の知人がヨンドン氏に説明したというが、ヨンドン氏の見方は違う。「ソ連が林彪の死を隠したのは、林彪がソ連と内通していたことを隠すためだろう」
氏はさらに続ける。「林彪と葉群は1939年から3年間、病気療養の名目でモスクワに住んでいた。この時期に、林彪はモルヒネ中毒になったというのが定説だ。ソ連は、つまり“痒いところに手が届く”よう世話をしていた。生活費やモルヒネの入手などで恩に着せ、スパイに仕立て上げたと私はみている。
林彪は最高幹部であり、通常のスパイ活動ということではなく、中ソの関係強化に協力するよう情報提供したり、政策立案を誘導したりしたのではないか。両国の対立が激化した時期にも、ソ連は長期的視野から林彪との関係を維持したと考えられる」
ヨンドン氏は最後に、「墜落機に残された林彪や家族、部下の遺留品は、いまもモンゴル政府が管理している」と明かした。今回の取材で歴史の謎の概要が明らかになったが、その証拠は封印されたまま、今年も林彪の命日が近づいた。
※SAPIO2013年9月号