終戦から68年が過ぎ、戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。今では、「日本はアメリカと一緒に戦ったんじゃないの?」と言う若者も少なくない。当時の実態を証言できる者は限られてきた今、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみた。
証言者:谷川清澄(97) 元海軍駆逐艦「雷」航海長
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〈谷川氏は大正5年生まれ。昭和9年、海軍兵学校65期入学、昭和13年、66期卒業。太平洋戦争中は、「雷」航海長として香港攻略支援作戦、スラバヤ沖海戦、「嵐」水雷長としてミッドウェー海戦、ガダルカナルなどを転戦。戦後、民間企業、海上保安庁を経て海上自衛隊で勤務。昭和45年、海将。昭和46年、佐世保地方総監。〉
最後の戦闘があった翌日の3月2日朝、大双眼鏡の見張員が「左30度、距離8000、浮遊物多数!」と叫んだ。しかし臨戦態勢での大声は、航海長の私を通り越してそのまま艦長の工藤俊作少佐に伝わった。
やがて「浮遊物」が、手足をバタバタさせているのが見えてきた。味方ならばそんなに慌ててバタバタさせないはずだから、敵兵だろうと思った。モミをばらまいたように海面には多数の頭が浮かんでいて、そのかたまりがふたつほどあった。
漂流していたのはやはり、前日撃沈した英駆逐艦「エンカウンター」の生存者だった。救助された敵兵の中で、士官連中は疲労しながらもしっかりしていた。自分たちが殺されるか生かされるかは、救助された時の雰囲気で分かったのだろう。主計長とおぼしき者が安心して、沈没時に持ってきた紙幣をていねいに甲板に広げて乾燥させていたのが心に残っている。
帝国海軍には武士道精神が残っており、戦闘能力のない者を助けるのは当たり前だった。敵兵の手当てには、貴重な燃料を消費して製造した真水まで使った。これには異議もあったが、やるからには徹底的にやらなければならない。助けたとしても扱いが中途半端だと、あとで何かと批判を受けるからだ(救助した敵兵は422名に及び、雷の乗組員の倍以上に達した。後に捕虜はオランダ病院船に引き渡された)。
工藤艦長は大柄だったが、普段はおとなしく立派な方だった。戦後何度も艦長の墓参りに行ったが、この時救助された「エンカウンター」乗組員であった元海軍中尉サムエル・フォール卿が平成20年に来日した時にもご一緒した。何度か頭を下げて「サンキュー」と言われ、やはりあの時の艦長の判断は間違っていなかったと改めて思ったものだ。
●取材・構成/久野潤(皇學館大学講師)
※SAPIO2013年9月号