【書評】『ヒゲの日本近現代史』阿部恒久著/講談社現代新書/798円
【著者】池内 紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
ヒゲを手がかりにして、日本の近現代史を語れないか。モードはメッセージである。世につれて変化しつつ、くっきりと時代の姿を浮かびあがらせてくれる。歌舞伎の舞台にヒゲ面が登場しないのは、江戸期のおおかた、ヒゲはさっぱり剃り落とすものであったからだ。
それが明治となって文明開化をうたうとともに、いっせいにヒゲ男が出現した。「オイ、コラ」の警官が格好のサンプルだが、権力のしるし。ナマズヒゲ、ドジョウヒゲなどと魚見立てでからかわれても、ヒゲに睨まれると、いいことなど一つもない。
寺田四郎といって、一〇〇年以上も前に『ひげ』を著したヒゲ学の先覚者がいる。帝大法科卒、ときに二十五歳。明敏な時代感覚をもっていたのだろう、ヒゲ男の跳梁がいずれどのような社会を招くものか、うすうすながら予感していた。さらにドジョウやナマズの影がうすくなるのに「民衆の政治的台頭」を考えた。
「……天皇四代すべてがヒゲを異にしている。それはまた、ヒゲのあり方をめぐる、各時代の一般的状況を濃く反映しているように思われる」
ヒゲが一つのメディアとして縦横に活用されている。メディアはまさしくメッセージなのだ。明治天皇の八字髭にはじまる天皇家四代のヒゲのあるなしがこんなにたのしく、意深く語られたのは、歴史上はじめてのことだろう。
チャップリンのヒゲとヒトラーのヒゲ。無謀にもアメリカとの戦争に突入したころの近衛首相以下の政治家、軍部の面々は、英雄ヒトラーをまねて鼻の下にヒゲをたくわえたが、それが稀代の喜劇役者にいきつくことは考えてもみなかった。チョビヒゲが期せずして彼らの演じた歴史的喜劇性を、もののみごとに伝えてくる。
ヒゲがのし歩くのは概して不幸な時代なのだ。終わりちかくに女性誌に出た「ヒゲの大図鑑」が掲げてあって、計24のヒゲ面が一覧になっている。「おしゃれ」として生きのびたヒゲの時代の幸せがよくわかる。
※週刊ポスト2013年9月6日号