『全国冷し中華愛好会』、略して全冷中(ぜんれいちゅう)。発足のきっかけは昭和50年1月の寒い時期、山下洋輔氏がマネージャーと編集者の3人で行った荻窪の蕎麦屋『長寿庵』で冷やし中華を注文したところ、季節外れのために断わられたことにある。
山下氏は「何ゆえだ!」と叫び、その足で新宿にある行きつけのバー『ジャックの豆の木』に向かうと、全冷中結成を知らせる声明文を一気に書き上げ、店の壁に貼り出した。
「『なぜ、冷し中華は冬に食えないのか! 生ビールもアイスクリームも食えるのに! この差別はなくさなければならない!』と怒っちゃって。当時“差別”という言葉が流行っていたから、そこに便乗したんです(笑い)。常連は赤塚不二夫さん、高信太郎さんみたいな面白がりばかりだったから、やれ、やれ、とあおられた。
僕は冬に食えればいいと思っただけなのに、詩人で思想家の奥成達さんが、『その程度の要求でいいのか!』って。これは運動だ、革命だ! となり、最後には天皇制のパロディにまで発展しちゃって。怖いでしょ~(笑い)。それで元号を“冷中”と定め、僕が初代会長になったんです」(山下氏。以下「」内同)
会員は前述のメンバーのほか、筒井康隆、平岡正明、坂田明、上杉清文、黒鉄ヒロシ、長谷邦夫、まだ世に出ていないタモリら若者のカリスマが名を連ね、一般人を含め約1000人に及んだ。
面白いのは、冷やし中華の起源はバビロニアにあるというバビロニア派、食べ方を説く教条派、冷やし中華で幽体離脱をはかる神秘派など、奇妙な派閥が続々誕生したこと。各自の持論は会報や雑誌で展開された。
「『ジャックの豆の木』は思想を戦わせる場でしたから、今日はどんな冷し中華の説が出てくるだろうと思うと、もう期待と不安がいっぱいで。仕事で疲れ果てていても毎晩通わずにはいられなかったんです(笑い)」
活動の盛り上がりが最高潮に達したのは、昭和52年のエイプリルフール、有楽町の読売ホールで行なわれた『第1回冷し中華祭り』だ。会場には、深夜放送などで聞きつけた約2000人の若者が集まった。
開会は午後6時半。筒井氏の開会宣言が行なわれると、会場は興奮の坩堝と化した。タモリによる冷し中華思想変遷の解説、奥成氏と平岡氏の対談(冷し中華はトコロテンの一種という平岡氏の説が、奥成氏のバビロニア説に敗れたばかりだった)。
さらに「スナモコシ1kg……」という坂田氏のハナモゲラ語(*注)での冷し中華の作り方、矢野顕子氏のわらべ歌メドレーなど、プログラムは多彩に進んだ。ところが、終盤で突然山下氏が会長辞任を表明、会場は静まり返ったという。
「『ヒゲタ醤油』に勤務していた僕の兄が、会場で冷し中華のタレを売ったんです。企業とのあらぬ癒着を疑われかねないので、その場で筒井さんに会長の席を譲りました(笑い)」
筒井氏の名前が呼ばれると、会場は再度大歓声に包まれた。新会長となった筒井氏は独断で元号を冷中から“鳴門”に改め、最後はアフリカ風ハナモゲラ語の歌「ソバヤ」を全員で合唱し、奇想天外な祭りは幕を閉じた。
【*注】ハナモゲラ語/「日本語を初めて聞いた、外国人に聞こえる日本語のものまね」から発展した言葉遊び。坂田明氏をはじめ、タモリの芸としても知られる。
※週刊ポスト2013年9月6日号