8月22日の朝、藤圭子さん(享年62)、が東京新宿区の自宅マンションから飛び降り自殺し、搬送された病院で亡くなった。浪曲師の父と三味線奏者の母の間に、3人きょうだいの末っ子として生まれた藤さん。生活は苦しく、両親は自宅のあった北海道や東北を中心に旅回りをし、お祭りや炭鉱、寺の本堂、旧家の大広間などで歌をうたい、その日暮らしだった。
そして、藤さんもまた家族を支えるため、10才になると両親と一緒に歌をうたうようになる。マイナス20℃の中、車も使わず、膝まで雪に埋もれながら何時間も一家で歩く。泊まる宿がない時は、町外れのお堂の中で一家5人肩を寄せ合い眠りにつく。そんな壮絶な毎日は、藤さんから学業も奪ってしまう。
「学校が終わると、毎日歌をうたいに夜の町に出かけるという生活だった藤さんですが、勉強が好きで学校の成績がよかったんです。もちろん進学して、もっと勉強したいという思いは強かったと思います。でも、家族を支えるため、中学卒業後は歌一本でやっていくことを決めたんです」(音楽関係者)
そんな藤さんの強い思いが届いたのか、偶然彼女の歌を聴いた作曲家にデビューをもちかけられ上京。17才の時だった。1970年にリリースされた『圭子の夢は夜ひらく』は藤さんの代表曲となった。
時代は高度経済成長のまっただなか。国が豊かになっていく一方で、貧しさに苦しむ人や時代に翻弄される女性が見過ごされる時代だったからこそ、藤さんの歌は怨みが込められた「怨歌」として評判を呼んだ。『圭子の夢~』は77万枚の大ヒットを果たし、その年のNHK紅白歌合戦にも出場。プライベートでは翌1971年に前川清(65才)と結婚する。
しかし、8月25日放送のテレビ番組で、藤さんと同世代であるテリー伊藤(63才)が「彼女が幸せになることを良しとしない雰囲気が実はあった」と語ったように、世間はそんな彼女を冷ややかな目で見ていたという。
「時代の“不幸”を歌った圭子さんの歌に多くの人が共感したのは、彼女自身の不幸な生い立ちがあったからこそ。歌手としても大成功を収めただけでなく、20才の若さで結婚し女性としての幸せを掴んでしまったことで、多くのファンがしらけてしまったところがあったのではないでしょうか」(前出・音楽関係者)
もしかしたらそんな周りの空気に負けてしまったのかもしれない。結婚生活はわずか1年で破綻した。同時期に藤さんの両親も藤さんの収入を巡って対立し離婚してしまう。
藤さんは目の不自由な母をひとりにしておけないと、父とは絶縁した。都心の一等地に建つ高級マンションで母との生活が始まったものの、同じ怨歌をうたっているのに、ヒット曲が生まれない。
1980年代に到来するアイドルブームの火種があちこちでくすぶっており、藤さんはたったひとり、取り残されたような気持ちになっていた。そうして彼女は、自由の象徴であるアメリカへ強い憧れを抱くようになった。1979年、藤さんは引退を表明、渡米。その後、藤さんは米国で宇多田照實氏と出会い、最愛の娘であるヒカルを産む。
※女性セブン2013年9月12日号