飛び降り自殺を図り、命を断った歌手の藤圭子さん(享年62)。1979年、引退を表明し、渡米した藤さんは、米国でコーディネーターをしていたミュージシャンの宇多田照實氏(65才)と出会い、最愛の娘である宇多田ヒカル(30才)を産む。
ヒカルが7才になったころだ。藤さんは、娘にR&Bのリズムを体から染み込ませ、ネイティブな英語を身につけさせようと、一家でニューヨークに移住しようと考えたのだ。それは、日本で生きることに苦労してきた自分と同じつらさを味わわせたくないという気持ちが大きかったからだろう。
決して楽な生活ではなかった。ニューヨークでの生活資金が底をつけば、帰国して日本各地を巡り、歌をうたう生活。それでも、家族3人で愛車の「ミニ」に乗って地方を旅した7年間は藤さんにとって幸せな時間だった。
「裕福な生活ではありませんでしたが、以前のようにトラブルのもとになるようなお金もないですし、周囲の目を気にする必要もない。純粋に心から信じ合える家族とずっと一緒にいられることが彼女にはこの上ない幸せだったんだと思います」(宇多田家の知人)
1993年には、照實氏と「U3ミュージック」を設立した。藤さんが歌を教え、照實氏がプロデュースする形で宇多田は、1998年12月、シングル『Automatic』でデビューした。まだ15才の少女だったが、圧倒的な歌唱力で200万枚を超えるセールスを記録。翌1999年にリリースされたファーストアルバム『First Love』は、国内外で1000万枚近く売り上げ、莫大な収入が一家に舞い込んできた。
そしてそれが新たな不幸の連鎖をもたらした。
「ヒカルさんのプロデュース方針で、藤さんと照實さんの意見は何度も食い違って、そのたびにふたりは激しい口論を繰り返していました。でも本当は、プロデュースの方針よりも、売れるようになってしまい、以前と生活が一変してしまったのが寂しかったんじゃないですかね…」(音楽関係者)
移動の車もこれまでは愛車の「ミニ」だったのが、いつしか3人ともバラバラの車に乗るようになってしまった。埃まみれになっていくかつての愛車を、藤さんは寂しそうな目で見つめていたという。
※女性セブン2013年9月12日号