プロ野球選手の活躍は、多くの裏方によって支えられている。その裏方のひとつ、対戦相手の戦力分析を担うスコアラーのなかから、1980年代の西武黄金時代を支えた敏腕スコアラー、豊倉孝治氏が語った分析失敗の経験をスポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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横浜vs巨人が行なわれた横浜スタジアムで、大竹憲治(元巨人)にバッタリ会った。選手会の事務局長として初代会長・中畑清と会を支えた男である。現在は球場の警備などを担当する会社にいるという。彼の口から、現在その系列会社に、ある男が在籍していることを聞いた。男の名は豊倉孝治という。
千葉・安房高時代は「堀内(恒夫)2世」と呼ばれ、1970年に西鉄にドラフト3位で入団。しかしプロでは6年間で3試合しか一軍登板がなく、引退後に打撃投手からスコアラーに転向した。
彼の名前を知ったのは1983年、西武が初めて巨人を下して日本一になった頃だった。紹介してくれたのは、当時、西武のエースだった東尾修である。
「コイツとは西鉄の寮で相部屋でね。俺が無断外泊する時は、座布団を畳んで布団を被せて、寝ているように見せかけてもらったもんだよ。もちろん、相手の傾向を見つけるスコアラー能力は天下一品だ。俺が最も信頼できるスコアラーだよ」
豊倉も「選手とスコアラーとの信頼関係は結果がすべて」と言う。その分析は的確で西武の黄金時代を陰で支えた。酒に酔うと、「選手として役に立てなかった。せめて裏方として戦力になりたい」と言うのが口癖。「スコアラーは自分が目立ってはダメ」と語り、多くの選手から信頼された。
そんな彼の完璧な分析が一度だけ崩れたことがある。1989年、優勝をかけた西武―近鉄のダブルヘッダー。近鉄がブライアントの4連発弾によって、西武の5連覇を阻止した試合だ。
西武はシーズン中、豊倉の分析によって、ブライアントを完全に抑え込んでいた。豊倉は、
「セオリーでは高めは危険だが、バットが下から出ているブライアントには、真ん中高めの速球が効果的。ウチの投手陣の球威なら抑えられた。だけど3発目は、中1日で出てきたナベ(渡辺久信=現・西武監督)の球が、疲れで伸びてこなかった。見抜けなかった自分が悔しい」
と言って、優勝を逃した責任を1人で被っていた。
※週刊ポスト2013年9月13日号