韓国だけでなく、世界中に慰安婦問題で日本を非難する声が拡散しつつある。だが今回、韓国・ソウル大学の名誉教授が発見し解読した日記によって、世にはばかる“通説”には捏造情報が多分に含まれていることがわかった。「たとえ親日家と罵られても、私は真実を語る」と、教授は語り始めた──。
「約20年前、私は『韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)』という団体と共同で慰安婦問題を調査していた。しかし、次第に『挺対協』の目的が慰安婦問題の本質に迫ることではなく、ただ日本を攻撃することだとわかり、調査団から離れた。
その後は“お前はバカな親日家だ”などと罵られ、研究者としての仕事もしづらくなった。だが、研究者の仕事は事実を明らかにすることであり、事実をねじ曲げることではない。その信念は今も変わらない。
だから、慰安婦問題の新事実を含んだこの日記と出会った時は心が躍った。そこにはこれまでの慰安婦問題の通説と異なる情報もあった。しかし、研究とは事実を明らかにすることであり、利害関係が入り込む余地はない。この日記は日韓どちらの損得とも関係のない客観的で重要な資料だ」
そう話すのは、朝鮮経済近代史が専門の安秉直(アン・ビョンジク)・ソウル大学名誉教授(77)だ。
安教授は8月、慰安婦の施設を運営していたある朝鮮人男性の日記を発見し、世間に発表した。もともと日記は個人博物館の運営者が所蔵していたものを国立韓国学中央研究院が見つけ、安教授が所属する研究所が解読と研究を請け負ったものだった。
日記の筆者は1905年に朝鮮に生まれ、1979年に死亡。彼は1922年から1957年までの36年間の記録を綴っていた。第2次世界大戦に日本軍政下のビルマとシンガポールで慰安所の経営に携わることになる彼の日記は、1943、1944年の分が、慰安婦関連の貴重な資料となった。安教授が話す(以下、「」内はすべて安教授)。
「今までの慰安婦関係の資料は、朝鮮総督府、台湾総督府を含む日本政府が残した資料に限られていた。慰安婦という性格上、公文書に残しづらい点もあり、資料は極度に不足していた。そのため、韓国での慰安婦に関する研究は、新聞や雑誌などに記載された二次資料や関係者の証言などに依存するほかなかった。
政府の資料は隠蔽された部分もあるだろうし、関係者の証言は補償などの利害関係に絡むから信用できない点もある。その点、この日記は慰安婦問題が世に出る1990年以前のもので改竄されようもない。非常に客観的な歴史的資料といえる」
日記は第三者に見られることを想定しておらず、慰安婦や慰安所の日々の様子が淡々と綴られていた。個人名は一部伏せ字にしてある。
<鉄道部隊で映画があるといって慰安婦たちが見物に行ってきた>(1943年8月13日)
<保安課営業係に金◯愛の廃業同意書を提出し証明を受け取った>(1944年9月6日)
<帰郷する慰安婦、お○と○子は明日の乗船券を買った。共栄倶楽部(※注1)の慰安婦、尹○重(○子)も明日出発だ>(同4月5日)
<正金銀行(※注2)に行き、送金許可された金◯守の1万1000円を送金してあげた>(同12月4日)
植民地時代の話になると、“悪魔の日帝”と“被害者の朝鮮”という構図になりがちだが、安教授は「両国共に冷静な分析が必要だ」と語る。
「宗主国にとって植民地政策には『利用』と『開発』の両方の側面があると考えている。開発しなければ負担になるだけ。実際、当時の朝鮮では農民経済が安定し、工業生産力が拡充するなど、様々な分野で近代化を迎えた。それは自主的なものというより、日本の植民地開発によるものが大きい。韓国は植民地時代のすべてを否定すべきではない。
翻って日本だが、今の安倍政権が歴史認識で批判されるのは、何のために『15年戦争(※注3)』を戦ったのか、それで何を得たのかということを客観的に議論できていないからだ。300万人以上が亡くなった戦争は結局、何一つ日本のためにもなっていないのではないか。
日記が両国の歴史認識にどれほど影響を与えるかはわからない。研究者としての私の願いは、事実をねじ曲げることなく、事実は事実として問題が解決されること。そういう意味でこの日記は役に立つはずだ」
【※注1】共栄倶楽部/シンガポールにあった慰安婦の名前
【※注2】正金銀行/横浜正金銀行のこと。東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身
【※注3】15年戦争/1931年の満州事変から1945年のポツダム宣言受諾による終戦まで、約15年間の日本の紛争、対外戦争をまとめた総称
※週刊ポスト2013年9月20・27日号