「(勝因は)チームワークですよ」──日本時間9月8日未明、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、2020年夏季五輪の開催地が東京に決定した。決定直後、副知事時代から6年にわたって五輪招致に尽力してきた猪瀬直樹東京都知事(66才)は笑顔でそう語った。
だが、その“チーム”には、現地にはいなかったメンバーが存在する。昨年12月、都知事に就任してからの猪瀬氏は、海外での記者会見やプレゼンテーションなど、五輪招致に奔走し多忙を極めた。その傍らには、常に妻・ゆり子さん(享年65)の姿があった。今年1月のロンドン、4月のニューヨーク出張にも同行。3月にIOC評価委員会を東京に迎えた際には、夫妻でテニスの腕前も披露した。
ゆり子さんは、去る7月21日、悪性脳腫瘍のため亡くなった。まだ65才という若さだった。猪瀬氏がゆり子さんと出会ったのは、ふたりが大学生の時だった。
「ぼくが19才、彼女が18才だった。目と目が合った瞬間、光の速度で一心同体で生きると決めたんです」(猪瀬氏)
1970年2月、卒業を前にして、ふたりは上京を決意。一足先に猪瀬氏が上京し、生活の段取りをつけた。そしてある夜、ゆり子さんは小さなスーツケースを片手にそっと家を抜け出し、夜行列車に飛び乗った。家族に見つからないよう、布団を膨らませ、寝ているように見せかけてまで。
彼女の家族は、猪瀬氏との結婚に大反対だった。旧家で、ゆくゆくはエリート銀行員か有力者の子息と結婚するものと周囲は思っていたからだ。しかし、ゆり子さんは迷わず猪瀬氏を選び、東京・中野の粗末なアパートに落ち着き、同棲生活が始まる。
10代の頃から、作家になることしか考えていなかった猪瀬氏は、常々石原慎太郎氏(80才)や大江健三郎氏(78才)が芥川賞を受賞した23才までに、芥川賞や直木賞をとると豪語していた。
「自分では、明確に書きたいものが見えていたけれど、時代の風に合わないといけない。だから、純文学も、批評も、ミステリーも、ノンフィクションも学術論文の要素も兼ね備えた“新製品”を作らなければと考えているうちに、時間が経っていって…」(猪瀬氏)
20代は編集者やビルの窓の清掃、工事現場でがれきの片付けをするなど職を転々とした。その間、ゆり子さんは小学校の教師となり、家計を支えた。そんな状況に、周囲は「どうしてあんな男と結婚したんだ」とゆり子さんを問い詰めたという。
26才で長女が生まれ、4年後に長男が誕生してからも、作家になる様子はなく、肉体労働に明け暮れている。そんなリスクの高い男を、どうして選んだのかと。だが、ゆり子さんはさらりと「彼は自分のことを天才だと思っているのよ」と答えていたという。
「作家になるのに資格なんてないからね。でも、ぼくには確信があった。大事なのは、ぼくに才能があるかどうかではなく、ぼくがそう信じているかどうか、揺らがないということが大事だった」(猪瀬氏)
30代半ばとなった1983年、猪瀬氏は『天皇の影法師』『昭和16年夏の敗戦』(ともに現在、中公文庫)を発表、ようやく作家活動を本格化させる。そして1987年『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。その後も日本近代の本質を追求する作品を次々発表する。
「ところが、ぼくの人生はその後も、事件、事件の連続だった。道路公団の民営化に取り組んだり、都の副知事に就任したり。そもそも今、ぼくが都知事をやっていることだって奇跡です。その“事件”の渦中に、家内もずっと一緒にいたわけですよ」(猪瀬氏)
その言葉通り、平穏とは遠い日々が続いた。2001年には小泉内閣の行革断行評議会に名を連ね、翌年には道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。この頃ゆり子さんは教職を辞し、家庭と、夫のサポートに専念する。自身も忙しい中、猪瀬氏が疲れて帰宅すれば、好物のロールキャベツを作って笑顔で迎えた。
※女性セブン2013年9月26日号