東京ヤクルトのバレンティンがシーズンホームランのプロ野球記録・56号を達成したが、大記録という「光」あるところには、必ずそれをお膳立てした者がいる。これは、球史に残る大記録の「影」となった者たちの物語である。1977年9月3日、後楽園球場で行なわれたヤクルト戦で、巨人・王貞治は右翼席へ本塁打を放ち、ハンク・アーロンの持つ世界記録を破る通算756号を達成した。
「世界の王」が誕生した瞬間である。
打たれた投手の名は鈴木康二朗。茨城・磯原高校から日鉱日立を経て1972年にドラフト5位でヤクルトへ入団、1976年には先発ローテーションに定着し、松岡弘、浅野啓司とチームを支えた。
これに先立つ8月31日の大洋戦で、記録に並ぶ755本目を打った王は、以降13打席中6打席で四球。対戦する投手は明らかに勝負を避けていた。
記録達成の瞬間を待つ、ファンからの異様なプレッシャーの中、初回に王を四球で歩かせていた鈴木は、3回に回ってきた第2打席では勝負をするしかなかった。
鈴木の決め球は鋭く沈むシンカー。フルカウントで迎えた6球目、鈴木はシンカーを内角へ投げたが、球は真ん中やや内側へ入り、王のバットが一閃。白球はスタンドへ吸い込まれた。
残酷なことに、この歴史的な本塁打を打たれた投手には、航空会社から「サイパン旅行」が贈呈されることになっていた。しかし、鈴木は辞退。
鈴木はこの年に14勝、翌1978年も13勝3敗で最高勝率投手としてヤクルトの日本一に貢献している。
“賞品”の受け取り拒否はプロとしての意地だった。そして「王に打たれた男」という取材は受けなかったという。
※週刊ポスト2013年10月4日号