大記録という「光」あるところには、必ずそれをお膳立てした者がいる。これは、球史に残る大記録の「影」となった者たちの物語である。
今回、ヤクルト・バレンティンにシーズン最多本塁打記録を破られた元巨人・王貞治。1964年9月6日の大洋戦。王の“一本足打法”が3年目を迎えたシーズンのことだった。
開幕から快調に本塁打を量産していた王は初回、「王キラー」と呼ばれた(通算で.247に抑えられた)大洋の先発・鈴木隆から52号を放ち、野村克也の持つ日本記録に並んだ。
迎えた6回、マウンドにはリリーフの峰国安が上がる。こちらも王に強く、三原脩監督の信頼の厚い中継ぎエースだった。だが王はこの峰から53号本塁打を放ち、新記録を達成した。
「峰投手は王さんが右足を下ろしかけるまで我慢して投げるという投法で“王封じ”をしていた。この時もタイミングをずらしたはずだったが、記録を意識したのかうまくいかず、完璧に捉えられた。峰投手にはまさかの一撃でした」
と語るのは、著書『打撃投手』(講談社刊)で峰投手を取材した、ノンフィクション作家の澤宮優氏である。
この後、峰は数奇な運命を辿る。記録達成から4年後、大洋の中部謙吉オーナーから、「巨人へ行って勉強をして来い」と言い渡されて巨人に移籍。
そこでなんと王の専属打撃投手を務め、最後には“王の恋人”と呼ばれるまでになった。記念の一発を打たせまいとした投手が、その一発を機に、王に気持ち良く打たせる仕事をするようになったのである。
「巨人に来て、王さんがこれだけ厳しい練習をしているのなら、自分が打たれたのは当然だと思った、と話されていました」(澤宮氏)
ちなみに55本目は、9月23日佐々木吉郎(大洋)から記録。佐々木は完全試合も達成(1966年)している投手である。
(本文一部敬称略)
※週刊ポスト2013年10月4日号