大記録という「光」あるところには、必ずそれをお膳立てした者がいる。これは、球史に残る大記録の「影」となった者たちの物語である。
通算奪三振の世界記録(当時)が生まれたのは、1962年9月5日の巨人戦。国鉄の金田正一は3日前の巨人戦で9回を投げ8奪三振、当時の世界記録、ウォルター・ジョンソンの3508に並んだ。
「記録は巨人戦で達成しないと翌日の一面には載らない。何としてもあの試合で達成したかった」(金田氏)
餌食となったのは、ONの後に控える5番打者でスラッガーの坂崎一彦。この年は王よりも高打率を残していた。ただ、坂崎のバットが空を切ったのには無理もない事情があった。
「実はあの日、ワシは調子が悪く、三振が取れそうになかった。だが、一面のためにここで決めないといけない。そこで記録がかかった坂崎さんの打席では、ワシは個人的に好きではなく、普段は“禁じ手”にしていたフォークを使ったんだ」(金田氏)
坂崎は土壇場で、聞いたこともない「金田のフォーク」を味わった、ある意味貴重な体験をしたのかもしれない。
金田はその翌年、通算勝利の日本記録を塗り替える。このシーズン、国鉄の勝ち星の7割を1人で稼いだ金田は、4月末から8連勝して22勝を挙げ、通算310勝(別所毅彦)の記録に並んでいた。
1963年6月30日、金田は広島とのダブルヘッダー第1試合の5回になんと代打で登場。そのままマウンドに立って9回までを投げ切り、311勝目をもぎ取る。
最後の打者は興津立雄(2死一塁で三振)。興津は専大時代「東都の長嶋」と呼ばれた逸材で、1年目からレギュラーを獲得。この試合でも4番を任されていた。
しかしこの興津を含めた主力3人を含め、広島はこの試合、金田に対し打者15人で7三振を喫するなど、手も足も出なかった。
「この3年前にスタルヒンの記録(303勝)を抜いたと、別所さんが大きな顔をしていたのが気に食わなかったから、この記録だけは1日でも早く塗り替えたかったんじゃ」(金田氏)
(本文一部敬称略)
※週刊ポスト2013年10月4日号