2011年9月3日、19時15分広島空港発のANA686便。羽田空港に着陸間際、人気コラムニスト・神足裕司氏(56)に異変が起きた。着陸するや、緊急搬送。くも膜下出血、5段階のこの病気のグレードでもっとも重いグレード5。搬送先の東邦大学医療センター大森病院で、頭蓋骨を一部外すなど3度にわたる長時間の緊急手術。その後、1か月半、意識は戻らなかった。以下〈〉内は、神足氏による、復活の直筆エッセイの一部だ。
〈死の淵というのを見たことがあるという人間がいるが、ボクはそこに行ったはずだが、見なかった。
けれど、音楽や人の声は聞こえていたような気がする。ボクを呼ぶ声や娘と息子がくだらない話をしている声、奥さんが素っ頓狂な話をしている様子。うたた寝でもしているように、ずっと聞いていた。
あるときはボクがもうダメかもしれないと話していたし、誰かが大声でボクを見て、泣いていた。〉
10月中旬、頭蓋骨修復手術。その頃から徐々に意識が回復していき、家族が掌を握ると握り返したり、問いかけの言葉に頷くようになっていった。そして遂に、意識が戻った。11月23日、横浜リハビリテーション病院に転院。
重篤な脳出血は大きなダメージを残した。高次脳機能障害と左半身麻痺。高次脳機能障害には意欲減退、抑鬱、直前の記憶の忘却など様々な症状がある。翌2012年4月20日、高次脳機能障害の治療のため、東京慈恵会医科大学附属第三病院に転院。左半身の機能も徐々に回復していった。
〈一年余りの入院生活は、あっという間だった。
動かない左足を動かして、歩けるようになるなんてどうでもいいように思えていたから、横浜のリハビリ病院では、劣等生だった。それから、慈恵第三病院に移り、リハビリ科の橋本先生と理学療法士の吉田君に出会った。
若い2人は、いつもニコニコしていた。で、世間話をした。話をしたというか、あちらがいつもニコニコ話しかけていただけだけど。
ボクはやる気がなく、だらだらとしたリハビリをこなしていたのだけど、気がつけば、この2人やスタッフの人たちと家族と友だちたちが、いつでもニコニコして近くにいた。家族や友だちは、そのときに限ったことではない。発病後、いつも近くで笑っていた。
そう、気がつけば、いつも……。
何となく、そんな人たちのため、頑張ってみようかという気持ちになっていった。劣等生は卒業。少しやってみようか、という気持ちになっていった。
ボクも笑うことが増えた。
お見舞いにきてくれる友人たちとも、ようやく向き合えた。〉
●こうたり・ゆうじ:1957年8月10日、広島県広島市生まれ。コラムニスト。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。学生時代からライター活動を開始、渡辺和博との共著『金魂巻』、西原理恵子とコンビを組んだ『恨ミシュラン』はベストセラーに。その後、テレビ、ラジオなど、幅広い分野で活躍。本格的なコラムニスト復帰への第一弾となるエッセイ集『一度、死んでみましたが』(集英社)を年内に刊行予定。
※週刊ポスト2013年10月11日号