昭和天皇が皇居から水道橋方面を眺め、「あの灯りは何か」と尋ねたことがきっかけで実現したとされる天覧試合は、1959年6月25日に後楽園球場で、阪神・小山正明、巨人・藤田元司の先発で始まった。
プロ野球が人気スポーツの地位を得るきっかけとなったこの試合には、選手だけでなく審判も並々ならぬ思いを込めていた。試合でレフトの線審(外審)をつとめた元セ審判部長の富澤宏哉氏が、当時を振り返った。
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天覧試合の2週間前、セの鈴木龍二会長から審判部長に、両陛下が観戦に来られることが伝えられ、私はレフトの線審(外審)に決まった。
当時、私は27歳と若かったので、「無事終わればいいな」と思うだけだったが、審判団の先輩方──明治生まれの人もいた──にとってはとてつもなく大きな出来事だったのだろう。球審を務めた島秀之助・審判部長は「試合中、陛下に尻を向けてしまう。横を向いて立つべきだろうか」と真剣に悩んでいた。
当時、野球は7時開始が普通で、8時45分に終了する1時間45分が一般的。これは抑えの宮田征典(巨人)が“8時半の男”といわれたことでもわかる。長嶋のサヨナラ本塁打で2時間12分で決着がついたが、当時からすれば天覧試合は長い試合だった。
本塁打が飛び込んだのはレフトスタンドのど真ん中。私はレフトの線審として、ラインの外から横を向いた状態で右手を大きく回した。ポールを巻いたという説もあるが誤りで、レフトの西山和良の頭上を越えていった。村山の気持ちはわかるが、あれは正真正銘の本塁打。でも、真っ向勝負にいった村山は本当に立派だったと思う。
●富澤宏哉/1931年生まれ。元セ審判部長。王貞治の756号本塁打、1978年日本シリーズ(1時間19分中断)でも審判をつとめた。
※週刊ポスト2013年10月11日号