久々のAクラス入りを果たした広島カープで、かつて不動の一番バッターとしてチームを牽引したのが高橋慶彦。山本浩二、衣笠祥雄らとともにチームを支えた「ヨシヒコ」について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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97年以来Bクラスにいた広島が16年ぶりにAクラスに進出した。新球場を本拠地として5年目、初のクライマックスシリーズ(CS)進出となる。若い選手を鍛え上げて一流にする伝統の広島流の育成法が結実した形だ。
旧・広島市民球場に2階スタンドがなく、球場名物の「カープうどん」に行列ができ、山本浩二、衣笠祥雄らが「広島の顔」として活躍していたあの黄金時代にも、1人の高卒選手の若い力があった。赤ヘルの切り込み隊長・高橋慶彦である。
芝浦工大のスキー部監督である父親の影響で、小学校の頃からスキーで鍛え上げた脚力は半端ではなく、それに目をつけた古葉竹識監督(当時)がスイッチヒッターへの転向を命じる。以来、「カラスが鳴かない日はあっても、慶彦がバットを1000回振らない日はない」というほどの猛練習を重ねた。
頭角を現したのは78年。翌79年には連続試合安打の日本記録(33試合)を樹立する。記録がスタートした時に4位だったチームは、記録更新とともに2位に浮上。その間、高橋は4割1分の高打率、21盗塁、32得点をマークした。その活躍もあって広島は優勝。同年、「江夏の21球」で有名な近鉄との日本シリーズに臨み、日本一となる。
高橋は遠征の時も練習を欠かさなかった。小山ゆう氏の漫画のモデル(『風の三郎』)になってもらった関係で、東京に来た時にはよく銀座に一緒に遊びに行ったが、「ホテルに戻っても必ずバットを振ってから寝ないと安心できない。中毒症状です」と話してくれた。
「バットはどこに行くにも忘れるな。バットを振らなければ上手になれない」
高橋の持論だが、これにまつわる話がある。当時の広島は東京遠征の際、品川に宿舎があった。独身だった高橋には、品川からほど近い田町のマンションに住む彼女がおり、夜中によく抜け出していた。その際もバットを担いで走って向かう。古葉監督も、「バットを持って出かける健気さがいい」と笑って見逃していた。今のように規則だヘチマだとうるさいことを言わぬ時代だった。
※週刊ポスト2013年10月11日号