1973年、阪神は優勝争いの真っ只中にいた。8月末の段階で首位中日と0.5ゲーム差。チームを支えていたのは、シーズン53試合を投げ、24勝13敗と活躍した左腕・江夏豊である。連投の影響で、肩・肘ともに限界に近かったが、投手の性(さが)か、「頼む」と言われたら断われない。8月30日の中日との天王山も、金田正泰監督の頼みで、江夏は中2日でマウンドに立った。
中日先発は左腕の松本幸行。軟投派の松本に合わせるように、江夏は力みのないピッチングを心がけた。4回、5回に四死球の走者を許したが、9回を終えて無安打無得点。しかし味方打線も松本を捉えられず、延長11回表を終えて0-0。江夏の投球数は142球になっていた。
その裏、先頭打者だった江夏が松本の初球を強振、ライトのラッキーゾーンに入るサヨナラ本塁打を放って試合を終わらせた。過去、ノーヒットノーランを自分のサヨナラ打で決めたのは江夏ただ1人である。
「体を張って投げていた」江夏だが、フロントの「(金がかかるから)勝たなくていい」という発言を聞き、球団に不信感を持つようになる。チームもあと一歩のところでV逸した。
自分でサヨナラ弾を決めたノーヒットノーラン試合を、シーズン401奪三振記録をもつ江夏豊氏が振り返った。
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ノーヒットノーランでサヨナラ本塁打か。若い自分がそこにいたなァと思ったね。甲子園での試合だったので、本塁打を打ったときには、「ああ、次の回はもう投げないでええんや」と思ったものだ。中2日で150球近く投げていたんだからね。コーチがラッキーゾーンまで走ってボールを取りに行ってくれて、後で持ってきてくれたのを覚えているよ。
記録はたまたまだけど、ただ言えるのは、力一杯投げている時は、記録はできないということ。力の入れ時、抜き時が大事。いつも自分の頭の中で、「自分の投球の生命線は、外角低めのストレート」というのを忘れずに、ピッチングを組み立てていた。
他の左腕投手には負けたくないという思いは強かった。自分が見た一番の左腕は鈴木啓示だと思っていたから、それ以外の左腕には負けないと思っていた。そのためか、三振記録を作った時の相手は高橋一三、ノーヒットノーランの時は松本と、皆左腕投手。思いが記録を作ったのかもしれないね。
記録達成後? 何をしていたかよく覚えていないが、寮にいなかったのは確かだね(笑い)。
※週刊ポスト2013年10月11日号