プロ野球の歴史をひもとくと、忘れられないサヨナラ弾の記録がいくつもある。そのなかで唯一、「逆転サヨナラ満塁弾」を2度打った男がいる。ただひとりの男、広野功氏が、二度の逆転サヨナラ満塁弾を振り返った。
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自分でいうのも何ですが、私の野球人生は本当にドラマチックだったと思います。常に天国と地獄の繰り返しでした。
1966年に入団した中日ではいきなり躓(つまず)きました。1年目のオープン戦で右肩を脱臼。医師からは「野球は無理だ」と言われるほどの大けがでした。目の前が真っ暗になって、郷里の母親に辞めたいと告げると、「腕がちぎれるまで帰って来るな」と怒鳴られた。今考えるとこの言葉はありがたかったですね。大きな励みになってトレーニングを続けて、なんとか5月には一軍に昇格できましたから。
迎えた8月2日の巨人戦。3-5で迎えた9回裏の攻撃、2死一塁から連打で満塁となり、私の打席。先発・城之内邦雄さんのリリーフに出てきたのは、ドラフトの同期、高卒ルーキーながら開幕13連勝していた堀内恒夫でした。
堀内とは因縁があるんです。新人王争いのライバルとしてある企画で対談したんですが、生意気な発言に本当に腹が立った。絶対に負けないと思っていたのですが、初対戦は4打数0安打。その後は打ちたい一心で、10グラム軽い「堀内用バット」まで用意しました。
その日の堀内のブルペンを見ていると、カーブの制球がイマイチでした。実際に対戦してみると、やはりカーブがスッポ抜ける。これはストレートしかないと読んで、フルスイングすると、打球はセンター右に飛び込む逆転サヨナラ満塁本塁打となった。もう宙に浮かぶような思いで走り、本当にベースを踏んだか不安になったくらいです。
2本目は1971年5月20日、今度は1本目を打った相手である巨人の選手として打ちました。移籍時、川上監督から「代打で使う」といわれていましたが、大事な初打席で金縛りにあったように1球も振れず、三球三振。それからは代打の場面でも、自分には声がかからない日が続いていました。
それがこのヤクルト戦では、4-5とリードされた9回裏満塁で声がかかった。左の代打を使い果たして、私しか残っていなかったんです。
相手投手は右の会田照夫。既に失点していたし、投手交代でもおかしくない。そうなると代打の代打で打てなかったが、前日の三球三振のイメージからか続投してきた。三球三振が役に立ったんです(笑い)。川上監督には「お前、絶対バットを振れよ」と凄まれましたが、低めをすくい上げると、打球はライトスタンドに突き刺さりました。
ただ、こうした奇跡の後には必ず落とし穴が待っていた。1本目も2本目も、打った直後に故障。まさに天国と地獄でしたね。
1974年に中日に復帰し、この年限りでユニフォームを脱ぎますが、そのきっかけになったのは3度目の逆転サヨナラ満塁本塁打のチャンスだったんです。巨人戦、9回裏満塁で投手堀内というあの時と同じ場面が回ってきた。私は与那嶺要監督に直訴して代打で出ましたが、ライトライナーに倒れた。もう潮時だなと思い、その場で「二軍へ行きます」と伝え、自分から現役に幕を引きました。
●広野功/1943年生まれ。慶応大時代は長嶋茂雄の持つ六大学の本塁打記録(8本)に並ぶ。ドラフト3位で中日に入団。1968年西鉄、1971年巨人、1974年に中日に移籍し同年引退。
※週刊ポスト2013年10月11日号