処女作『薔薇とビスケット』(小学館)が小学館文庫小説賞受賞。著者の桐衣朝子さん(62才)は、3年前の春、乳がんの宣告を受けた。
「そのときの怖くて、悲しくて、孤独な気持ちはどう表現したらいいのか…」
幸いに手術は無事に終えたが、1年後に襲った東日本大震災で、「ローラーでひかれたように気持ちがぺちゃんこになって、今度はうつを発した」と明かす。直接の被害はなかったものの、連日の報道は鋭敏な感性を打ちのめした。病室の窓から街を見下ろしながら、焦燥感にかられた。
「これまで一生懸命に生きてきたのに、生きた証しを何ひとつ残せず、このまま死んでいくのかと、むなしさにとらわれたのです。
でもまた、いや、そんなはずはないとも思う。私だって生きて、誰かの役に立つことをしたい、と思いました。がんの宣告を受けた日に感じた孤独と悲しみの体験は私だけではないはずだから、そうした思いも書いて残しておきたい、と思いました」
そんな著者に、ふたりの娘がノートを渡し、「書いたら」と小説を書くことをすすめた。構想はすぐにまとまった。主人公は、養護老人ホームで仕事に追われている25才の介護士の青年。その彼がある日、時空を超えて、昭和13年の東京・新橋の芸者置屋にたどりついてしまう。
「実はふたりの娘が介護士なんです。実習先の老人ホームでは認知症の利用者さんから、殴られたり蹴られたり、胸をつかまれたり、といった話をうちでもよくしてくれました。娘たちの経験が物語のあちこちに活かされています」
若い介護士の考えや悩み、老人のエピソードはどれも事実に基づいている。一方、青年がタイムスリップしてしまう昭和10年代の日本は、
「私のいちばん好きな時代です。人々の生き方、心のあり様、しぐさ、言葉遣い、すべてで日本人がもっとも日本人らしくあった時代だと思うのです。そのよさを物語の中に生かしたいと」
半面、女性は人権をほとんど無視されて、社会進出もごく限られていた時代だ。食べていくために遊郭に身を売ったり、自分の意思とはかかわりなく芸者になる若い女性も少なくなかった。
「調べていくほどに、そうした女性たちがかわいそうで、彼女たちの痛みが、他人事とは思えないのです。たまたま生きる時代が違っただけで、もしかしたら私だって、うちの娘だって、同じ境遇にいたかもしれないですもの」
そこで、この時代に生きる芸者をもうひとりの主人公にして、女であることの悲しみに寄り添い、時代や性別や職業は違っても、誠実に懸命に生きる若者に焦点を当てた。
「書いているうちに、人生むなしいばかりではないよ、大丈夫よ、しっかり生きようよ、という気持ちになって、私自身が救われていました」
書き上げてすぐに、小学館文庫小説賞に応募し、受賞がかなった。
「60すぎたおばあさんが賞をいただけるわけない、って応募したことも忘れていたんですけど(笑い)。一生懸命生きて、書いたことが報われて、やっぱり、人生むなしいばかりではないな、と思ってます」
穏やかな笑顔の中に、病気のこと、40代半ばで大学に学んだこと、そうした体験のすべてを糧として、これからの作家活動に励む熱い意欲がのぞいた。
※女性セブン2013年10月17日号