かつてオリックス時代のイチローが、オープン戦で広島カープと対戦すると、そのトスバッティングに見入っていたという前田智徳が、24年間のプロ野球選手生活を退く。前田は以前、こう語っていた。
「たとえヒットになったとしても、自分が理想としている打球でなければ、悔しくて寝られないほどでした。(中略)自分が納得しない打球がヒットになっても『今のはヒットじゃなくていいです』とでも言いかねない感じでした」(『サーカス』2008年4月)
前田が打撃にこだわるあまり、周囲を仰天させたエピソードは多い。
「高3の夏に出場した甲子園の初戦。前田は1回の攻撃でセンター前ヒットを打ったが、その後、ベンチで号泣しながら頭を抱え込んでしまった。ヒットの内容が良くないと、こうしてうずくまる。実は練習試合でもよくあった光景だが、監督もまさか甲子園のベンチでこうなるとは予測していなかったようで、必死で説得して守りにつかせたという」(地元紙記者)
野球評論家の達川光男氏も「前田のこだわり」に触れた1人だ。
1992年9月13日の巨人戦。5回、川相昌弘のセンター前ヒットを前田がトンネルし、ランニング本塁打となる。これで同点にされ、北別府学の勝ちを消してしまった。
「その後8回に、前田は自分のバットで勝ち越し2ランを放って試合を決めたのですが、アイツはダイヤモンドを周りながら泣いていたんですよ。本塁打でミスを取り返した嬉しさではなく、エラー直後の打席で凡打したことが悔しかったらしい」(達川氏)
かねてから、前田は「相手の一番いい球を当たり前の顔をしてヒットにするのがプロ」と語っていた。そこには打撃に関する、徹底した「美学」があった。
※週刊ポスト2013年10月18日号