王様のブランチの書評コーナーで知られる松田哲夫氏だが、編集者として様々な作家を担当してきた。そのなかから、今回はマンガ家の水木しげる氏との思い出を綴る。
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水木しげるさんには『のんのんばあとオレ』、『ねぼけ人生』、『ボクの一生はゲゲゲの楽園だ』など多数の自伝があり、ドラマ化もされている。だから、多くの読者は、この天才が、いかに波乱に富んだ道を歩んできたかを知っている。
腕白盛りの少年時代、学校も仕事も落第続きの青年時代。そして、戦争で九死に一生を得るが片腕を失う。戦後は、紙芝居、貸本マンガの世界で赤貧洗うがごとき生活を送る。雑誌「ガロ」発表作品で注目され、超売れっ子マンガ家になり、多忙の地獄も経験する。
2008年、戦後の極貧時代から水木さんに連れ添ってきた布枝夫人が、夫婦の半生を綴った『ゲゲゲの女房』を刊行した。この本には、自伝では知り得なかった印象深いエピソードが書かれている。
結婚式で隣り合わせになった時、義手が夫人の体に当たってコツッと音を立てたこと。売れないマンガに精魂を傾ける水木さんの後ろ姿に、尊敬の念を抱いたこと。一転、多忙を極め、余裕のなくなった夫にいたたまれなくなり、二十メートルの家出を敢行したこと。
布枝夫人は昭和一桁生まれの我慢強い女性で、水木さんから「いつもぼんやりしている」と言われている。そういう彼女が、ついつい涙を浮かべてしまう場面が二か所ある。最初は、水木さんの代理で貸本マンガ出版社に原稿を届けるのだが、稿料を値切られた上に、作品をけなされて悔しい思いをした時。
次は、末尾近く、水木さんが八十歳のときに恵まれた孫が、成人して子供をもうけるまで生きようと語り合うところだ。水木さんの自伝には、こういうウェットな感覚はない。だからこそ、夫人が涙を浮かべる場面はひときわ新鮮に感じられた。
『ゲゲゲの女房』は、その後、NHKの連続テレビ小説になり、高視聴率を記録した。向井理さん扮する水木さんは、ご本人の素っ頓狂な感じはなく(失礼!)、思索的で格好良かった。
※週刊ポスト2013年10月18日号