かつてセ・パ5球団の監督を歴任し「魔術師」と呼ばれた采配で知られる監督がいた。監督として3248試合という日本記録を持つ三原脩について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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巨人・原辰徳監督の6度目の優勝、楽天・星野仙一監督の3球団目の優勝が決まったことで、やたら目立ったのは「三原脩」の名前だ。両監督がそれぞれ三原と並んだというのが理由である。
三原は「花は咲く時が咲かせ時」という言葉が好きだった。西鉄・稲尾和久、大洋の秋山登など、連投も辞さない選手起用で選手を短命にするとも批判されたが、「チームは勝たなければ先に進めません」と平然と言い続けた。そのかわり情報網を駆使し、選手の性格・状況はしっかりと掌握していた。
大洋時代の1960年、近鉄から鈴木武という内野手がシーズン途中に移籍してきた。近鉄と揉めてやる気を失っており、遠征にも下駄履きの汚い格好に、風呂敷包みを抱えてやって来るような選手だった。何故獲得したのかと聞いた私に、三原は答えた。
「アイツがいつも大事に手にしている風呂敷の中身は何だと思う? 雨天用と晴天用、刃の長さが違う2足のカンガルー革製のスパイクだ。こういう職人はいざという時に役に立つ」
その言葉通り、鈴木は堅守と俊足で大活躍、最下位だったチームの快進撃が始まった。
ヤクルト監督時代にはこんなこともあった。1971年の巨人戦、延長10回、1死満塁の場面。代打で登場したのは、成績よりもヤジで目立つ大塚徹だった。
打席に向かう大塚に三原が出したサインは、強攻でもスクイズでもない、「振るな」だった。大塚は打席で、1球ごとにベンチを見ては素振りをする。相手投手は必要以上に警戒して、押し出しの四球を与えてしまった。「アイツは普段からホラばかり吹いているから、そのくらいの演技をすると思って」というのが代打の起用理由。大塚は計4度のサヨナラ押し出し(日本記録)を勝ち得ている。
アテ馬、ワンポイント、二刀流と数々の弱者の兵法を編み出した三原。数字こそ並んだ原と星野だが、まだまだその域にはほど遠い。
※週刊ポスト2013年10月18日号